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自転車のある風景 第 15 ‐ 1 話  コノユビトマレ

 約束した時間の30分以上も前にカフェに着いた章吉は、チラチラと出入り口を伺いながらスマートフォンで展示会の詳細を確認していた。会場まではここから歩くと30分。電車を利用すると乗り換えが2回も必要になった上に所要時間もほとんど変わらない。
「綾さん、歩いてくれるかな・・・」
「電車は面倒だな」
「だから都内は自転車が一番、便利だって思うけどな」
 章吉のため息まじりの独り言が宙を舞う。
「このまま晴れていてくれたらいいのにな」
 雲と雲のあいだから覗き込むような眩しい陽射しが窓にあたる。天気予報ではこの後から次第に雲が多くなり、日が沈むころには雨になるらしい。
空の下では複雑な回路のように数えきれない生活が今日を紡いでいる。章吉は頬杖をついたまま、落書きで埋まった白い壁や陽に焼けたロードショーのポスター、行き交う人の中、鞄につけられて揺れてるマスコットを眺めていた。
「早いですね。ずいぶん待ちました?」
 いつのまにか、章吉の後ろに綾が立っていた。慌てて立ち上がった章吉はちらっと時計を確認したあと、顔を左右に振った。
「いえ、そうでもないですよ」
「そうですか。よかった」
「はい。約束した時間にもまだなってませんし」
 店いっぱいに広がるコーヒー豆を深く焙煎した、少し焦げたような香りを綾は大きく吸った。
「ああ、いい匂い」
 嬉しそうにそう言った綾は、テーブル上にある乾ききったカップを見てクスッと笑った。
「コーヒー、飲みましょう。僕ももう一杯注文します」
 綾は章吉の正面にゆっくりと座った。章吉はメニューを眺めるうつむき加減の綾の顔を、確認するかのようにそうっと見ている。
「決まりました?」
 綾が章吉に聞く。
「はい」
 章吉がそう答えたらすぐに綾がサッと手を上げて店員さんを呼んだ。綾は香り高くてちょっと酸味が立つ浅煎りのキリマンジャロを、章吉はキリマンジャロと同じアフリカ産で深煎りのケニアを注文した。
「ところで綾さん、ここから会場までどうやって行きましょうか?」
 緊張が解れなくてそわそわしていた綾は、章吉の言葉に自分の名前があることに気がついて、思わず背筋を伸ばした。
「はい?え、あ、調べたんですけど、自転車が一番、便利ですけど、今日は歩いてもいいかなと思ってます」
「では、そうしますか。歩いても・・・」
「30分くらいですよね。電車は乗り換えが面倒だから、それでいいですか?」
 章吉が返事をしている最中に、綾がそれに被せるように言葉をつないだ。
「あ、はい」
 少し呆れるようなテンポの会話にもどかしさを感じる中、なぜか心地よくて章吉は今日初めて笑った。
「綾さんはコーヒーをよく飲むんですか?」
「はい。ミルで豆を挽いたときの香りや音が大好きです」
「豆の種類は?」
「近所に30種類以上も生豆を揃えているお店があって、そこの店主さんとお話をしながら、あれこれ買ってますから、これと言って1種類の豆だけにこだわっていないんです」
「そうですか。それ、面白そうですね。お店が見てみたい」
「今度、ご案内しましょうか?」
「是非」
「同じ豆でも焙煎する時間で違う香りや味があるって比較できるのは、すごく面白いですよ。章吉さん・・・はコーヒーに興味は?」
 初めて章吉の名を呼んだ綾は、章吉の気持ちを探ろうとじっと目を見ていた。
「僕も小さなミルで豆を挽いてます」
 章吉が嬉しそうにはにかみながら話す理由は自分の名前を呼んでくれたことなのか、コーヒーという同じ楽しみを持っていたことが嬉しかったのか綾にはわからなかった。
「コーヒーは嗜好品ですから、自分の好きなように楽しめばいいと思ってます。もちろん、焙煎や抽出には基本がありますから、それはしっかりと学んで自分なりに解釈してます。焙煎は店主さんに自分の飲みたいコーヒーを伝えて調整してもらってます。抽出は何回やっても実験してるみたいで楽しいですよ。冷めたコーヒーでも苦味だけ残ることはないし」
 楽しそうに話す綾を、章吉は穏やかな表情で見ていた。
「それ、羨ましいな。自転車もきっと、そうなんだろうな。自転車も種類がある。乗り方はそれ以上にもっとたくさんある。自分が楽しく感じることを大切にすれば、もっともっといい場面や景色に出会えるんだけど、すべてが思うほどうまくはいかないみたいだ」


・・・つづきは02月10日に掲載・・・


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