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自転車のある風景 第 12 - 2 話 1ダースの言い訳

 自転車屋さんに行って「どんな自転車をお求めですか?」と聞かれて初めて生じる戸惑いがある。
 使い方や種類、価格などの予備知識を持たずに自転車を買いに行くと、望むような買い物がすぐにはできない。
「靴を買いに行くときと同じでいいと思います」
「靴を買うときですか?」
 彼女は眉間に皺を寄せて、僕がなにを言わんとしているのか考えていた。
「靴屋の店員さんに、靴が欲しいんですって言わないでしょう」
「そうですね。どんな靴を買うかくらいは決めていきますね」
「あとはデザインや機能、価格との相談ですよね」
「スニーカーなんかは特にそんな感じです」
「そのスニーカーは通勤のためなのか、ランニングのためなのかによっては選ぶ基準も変わる」
 軽く頷いているのは、この先、僕が言うだろうことが想像できたのだろう。
「山を登るなら登山靴ってことですね」
「その通り。でも、富士山も天保山も同じ山だけど環境はいろいろと違う」
「登る山によっては登山靴が絶対に必要ではないってことですね」
「そう。でも舗装された道路がガタガタだったり、車輪にダメージを与えるような穴が開いているようであればロードバイクが一番いいってことにはならない」
「じゃあ、ロードバイクはどんなときに乗る自転車なんですか?」
「簡単に言うと快適に効率よく長距離を走るときかな。効率よくハイスピードを出す、効率よく長時間乗るのに適した自転車だから。軽くて強度のある素材で造られているし、ドロップハンドルが特徴的。僕が乗っている自転車です」
「じゃあ、山を走るならマウンテンバイクが適してるってことですね」
 彼女は身体を動かすことには抵抗がない人らしい。
「そう。ほかの自転車では走れないような舗装されていない道とか、登山道、荒れた林道が走れる。タイヤが太くて、強靭なサスペンションがついている」
「スノーボードの経験があるから、スピードを出して駆け降りるのは楽しいのはよくわかるわ。じゃあ、そのいいとこどりをしたのが私が乗ってるクロスバイクなら、通勤には一番、適してそう」
「そうかもしれませんね」
 彼女はマグカップに手をかけたが、もう空っぽになっているとわかるとすぐにテーブルに戻した。
「そんなに自転車が違うんだったら、さっきは変わらないっておっしゃいましたけど、見える景色も違いませんか?」
「走る速さや視線の高さ、乗り心地は自転車によってずいぶんと違う。でも同じ道を走っていたら同じ景色には違いない。ただ、その同じ景色の中は毎日違うんだなって感じることできる自転車は楽しいなと思ってる」
「なにが違うんですか?」
「風の強さだったり、すれ違う人たちだったり。タイミングよく信号を4つほど止まることなく走れたり」
「でもそれはランニングでも同じことが感じられませんか?」
「僕の場合は、そこに通勤するという目的が存在しているわけで、朝から20km以上を毎日、ランニングで通勤するのかってことになる」
「あ、そうでした」
 自転車の魅力を伝えるって、なかなか難しいんだなとあらためて思う。でも、自転車に興味がまったくない人でも、些細なきっかけで、ほんの少し興味が湧くと、無意識に自転車を目で追い始めることがある。彼女にもそんなきっかけが与えられたらなぁと思う。
「話を戻すと、靴も自転車も同じこと、どんな状況で使うのかくらいは決めてお店に行ったほうがいい。そして妥協はしないで本当に自分が求めるものを買いさえすれば、いい商品は心地よく感じるし、丁寧に手入れをして、ずっと使っていたくなる。せっかく買った自転車に乗らなくなった1ダースの言い訳をしなくて済む」
 雨が舗道の鍵盤を叩いているせいか、テンポのいい会話が続いた。
 喋り過ぎたのか喉が渇く。隣のテーブルのカップルがおいしそうに飲んでいるスパークリングワインを注文したい気持ちを抑える。
 彼女は黙って外を見ている。彼女の視線の先を追ってはみたけれど、これといってなにもなかった。
「雨、止んじゃいました」
 店内にクリスマスキャロルが流れる。
「いい時間になりました」
 視線を腕時計から彼女に戻すと、また空っぽのマグカップに手をかけて小さくため息をついた顔が寂しそうに見えた。
「年が明けてひと段落したら、今度はお酒でも飲みながら自転車以外の話でもしませんか?」
 返事がない。僕なりに遠慮しながらも勇気を出して言った言葉が聞こえなかったのか。
 困った。お酒の誘いは早まったかと心配する。
 彼女は黙ってまだ外を見ている。彼女の声を聞き逃すまいと、窓の向こうの雨音さえ聞きとれそうなほど集中する。
 「え?」
 聞き直されても、あらためてもう一度、同じことは気恥ずかしくて言えない類の言葉を頑張って言ったのに。
「連絡先を交換しませんか?」
 まったく予期していなかった、そしてあまりにも期待以上の問いかけにすぐに反応できなかった彼女は、ほんのわずか頬を紅く染めて恥じらうみたいに僕を見た。
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
 お酒なんぞまだ早いと断られたら、この場をどうやって繕えばいいのかまでは考えられなかった。
「連絡、お待ちしてます」

 さて、ひと段落したらという言い方が悪かったのか、新年になり、もうすぐ2月になるのに綾さんからの連絡がなかった。やっぱり、僕の気持ちが先走り過ぎたのかと思っていた矢先、連絡があった。

・・・おわり 次回の作品は09月10日掲載予定・・・

 散走のかたちは人それぞれ。いろいろな人が、好きなスタイルで、ゆっくりとペダルをまわすその時を楽しんでいます。
 OVEのオリジナルストーリー。この主人公たちは、あなたのまちにいるのかもしれません。



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