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自転車のある風景 第 12 ‐ 1 話 1ダースの言い訳

 冷たい雨が降る12月、もうすぐやってくるクリスマスでキラキラと輝き華やぐ街で彼女と僕は再会をした。
 コーヒーカップを傾けつつ窓を伝い流れる雨を見ながら、僕は戸惑う間もない出会いに語る言葉を探していた。
 しばらくは表面的な世間話をしながらお互いに様子を伺っていたけれど、話題もどんどんとなくなり、次第に無言の時間が増え始める。
 カップの底に溶けずに沈んでいた砂糖が見えていた。
「自転車って、楽しいんですか?」
 彼女から唐突にそう言われた。そんな単純な質問に、素直にもちろんですと何故だか答えられない。
「でも、あなたはもう自転車には乗ってますよね」
「はい。でも、ほとんどが自宅から最寄り駅まで移動するだけです。それくらいの距離しか走ったことがありません」
 彼女の横顔がヘッドライトにきらめく。
「そうですよね。まさに生活の道具でしかない状態の自転車でしたよね」
 意地悪な言い方をしたから少しでも笑ってほしかったところだけど、彼女はまじめな顔つきのままだった。
「あの日から、自転車に乗っている人が目につくようになったんです。そうしたら、自転車に颯爽と乗っている人たちが多くて、ちょっと羨ましく感じ始めています。自転車って、そんなに楽しいものなんですか?」
 あらためて聞かれても楽しい理由がすぐに答えられない。
「どう思います?」
「今の私にはそんなに楽しいものではありません」
 生活の道具でしかない自転車にどんな楽しみを求めるの?って顔をして僕を見ている。
「というか、楽しみ方ってあるんですか?」
 ここが、この先、自転車とかかわる生活が始まるか否かの分岐点なんだろう。
 僕は先輩から半ば、強引に勧められたから乗り始めたものの、それまでは目の前の彼女と同じ心境だった。自転車で走ることに高揚感や期待感みたいなものはなく、マラソンに挑戦しろと言われたほうが現実的で、やってやろうという気持ちになれたと思う。
 そんな思いをした僕がずっと自転車に乗っているというのに、その理由が言葉にできない。
「そうだよね。そう思うよね」
 彼女は黙って僕の次の言葉を待っていた。
「ランニングに比べると膝や腰に負担がない。ウォーキングの早歩きとほぼ同じ強さで、同じ程度のツラさでも自転車の方が気持ちよさが持続できる」
「はぁ」
「運動不足解消やダイエット、ストレス発散のために自転車に乗りましょう」
「え? まぁ」
「なんて、そんな雑誌に載っていたり、パソコンで簡単に調べられるようなことは言いませんよ。間違いではないけどね」
「・・・・・・」
 なにか言ってくれないから胸が痛い、胸が痛い。
「そもそも自転車は歩くよりもスピードが速いから、流れていく風や景色で爽快な気分になれるからかな」
「それだけですか?でもそれは当たり前のことですよね」
 当たり前と言われても、反論できない。子供の頃から大人になるまでに一度は自転車に乗った経験がある人に向かって、自転車は速く走れていいですよって言ったところで、つまらないことを言う人だと思われるだけだ。
 自転車に乗らない言い訳が1ダースあったら、自転車に乗っている言い分も同じ数だけある。ただこれは実際にこの言い分を実感してもらわないと理解してもらえない。
「いまの自転車に乗っていて、なにか感じることはない?」
「自転車に乗る回数が増えてから、同じ道の風景が、なんとなく、気持ちよかったり、よくなかったりしてます」
 それが一番大事なことだと気がついたらいいだけなんだけれど。
「あのクロスバイクは自分で選んだの?」
「自転車に乗っている先輩から一緒に走ろうよって誘われたんです。その自転車を写真で見せてもらったことがあったから、先輩を驚かそうと思って、一人でお店に行って写真を参考にしながら探して買いました」
「その先輩は?」
「2、3回ほどは一緒に走ったんですけど、彼氏ができてからは私と走ることがなくなりました」
 自転車との最初の接点は僕と似ているけれど、僕みたいに満員電車を避けるための移動手段として自転車を活用しているのではない。休日の趣味として乗る自転車の楽しみが彼女には定着しないまま、現在に至るってことみたいだ。
「そうですか」
「坂道はいつまで経ってもきつい坂道でしかないし、車の往来も気になるし、どこか行きたい場所も思い浮かばないから一人で走りに行こうって気になれなくて」
「そうだよね」
「自転車って、楽しいんですか?」
「その繰り返されている同じ質問は、確かに肝心なところなんだ。自転車には自転車なりに目に届くものや感じるものがあって楽しいんだけれど、それは副産物。基本は勝手な自己肯定、自己陶酔、自己満足。誰にも迷惑をかけないなら、それが大切だと思う」
 僕は通勤が入り口だった。しかももう何年も走っているけれど、雨の日は自転車には乗らないし、休日はほとんど乗らない。健康のためだとか二酸化炭素排出削減にご協力なんて大義名分もない。
 そう考えてみると他人を説得できるような、自転車に乗り続けている絶対的な理由が見当たらない。
 自転車通勤が生活の一部になってしまった今は、楽しいのかな、気持ちいいのかなという期待は走り出す前には考えなくなった。
 彼女は眉間に皺を寄せている。どうやら僕の言ったことは質問の回答にはなっていない様子。
「質問を変えます。じゃあ、自転車が違うと見えるモノや感じるモノが違うんですか?」
 環境が違えば、同じ自転車で走っても五感に訴えてくるものはなにもかも違う。環境に応じた自転車という道具を体験したとき、きっと感情を揺さぶる副産物が生まれる。
「ほかのスポーツバイクには乗ったことはある?」
「いいえ。ほかにはどんな種類があるんですか?」
「ほかにはロードバイクとマウンテンバイクかな。それがクロスした自転車が君が乗っているクロスバイクだね」
「走り方が違うんですか?」
「いや、そんなことはないと思うんだけど」
「みなさんは、自転車をどうやって選んでるんですか?」
 このまま、無機質で機械的な話になると、きっと自転車に興味が湧かなくなりそうだから、誰もが買ったことがある商品の、具体的で共感できる情景を考えてみた。
「そうですね、靴を買うときと同じかな。目的によって使い分けるといいんです。でも、長靴みたいな使い方をする自転車はないなぁ」
 光るアスファルト、都会の夜はドラマティック。
 雨はしばらく止みそうになかった。


・・・つづきは08月10日に掲載・・・


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