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自転車のある風景 第 8 - 1 話 雨やどり

 九月のとある木曜日。
 目覚ましが鳴ってもいい頃なんだけどなぁと夢うつつ、ベッドから身体半分、ずり落ちそうになりながらスマートフォンに手を伸ばす。なんとか薄っすらと目を開けて時刻を読む。
「え?」
 いつもなら私が家を出る時刻の15分前。
「やば」
 目を見開いたまま洗面所へ、キッチンへ、トイレへと駆け回る。ぶつぶつ言う間も与えてくれず容赦なく進む朝の時間との競争を続ける。
「駅まで自転車で行けばいいんだ」
 靴下を履いたところでそうと決めたら、目が覚めてからずっと続いていた緊張が緩んだせいか、大きなため息がでた。
 駅まで歩いて20分と少し、自転車なら5分くらいで到着すると思う。
 会社まで自転車で通勤している人に言わせると、満員電車とは比較すること自体が間違ってるほど快適で気持ちいいのはもちろんのこと、電車より早く到着できる人もいるらしい。
 でも自宅から会社までの10kmは、私には自転車で通勤する距離には思えない。
 長い間ほったらかしにしていた自転車は案の定、ハンドルには握りたくもないほどの埃が付いているし、こんなサドルに座ってペダルを漕いだら服のどこかが絶対に汚れる。鞄からありったけのティッシュペーパーをだして身体に触れる箇所はしっかりと拭った。
 リュックを背負い、サドルにまたがりペダルを踏みこむとギシギシと変な音がする。チェーンは茶色く錆びてたるんでいるし、ブレーキはキーキーと泣く。ずいぶんとタイヤに空気も入れていない。もちろん手入れをしたほうがいいことぐらい知っている。でもそんな遠くへ行くこともないし、このままでも一応、支障なく走る。ギシギシと軋んでいるのがどこかさえわからないけれど、生活の道具なんだからこんなものだと思う。
 アパートの自転車置き場を出ると自転車で駅へと向かう人がたくさん走っている。この前、駅の駐輪場の定期申込みをしたら「3年待ちだよ」と理解不能な待ち時間を告げられた。びっくりするようなことを係りの人が平然と、普通に言うこと自体に驚いた。
 綺麗な自転車たちがどんどんと私を抜かしていく。錆びて音がするガタガタの自転車に乗っているのは私だけかもしれないと行き交う自転車を見て耳を澄ます。
 子供を乗せて電動アシスト付き自転車ですいすいと走るママやパパ。
 スポーツ自転車で颯爽と駆け抜ける女子や男子。
 タイヤとアスファルトの摩擦音やカラカラ、チリチリと軽快に回る車輪の音が心地よい。
 高速道路とビルの間から青空が見える。
 金木犀の匂いが頬を流れ、オレンジ色の小さな花を探す。
「これかな。みんなが気持ちがいいというものは」
 この坂を上りきったらもうすぐ駅。この自転車もクロスバイクなんだからと、変速レバーを操作してギアを軽くし負けじとペダルを踏みこんだ。
「ガシャ」
 今日一番の大きな嫌な音がして急に脚が空回りしたかと思ったら、自転車は坂を上っていく力をすうっと失ってあっという間に止まってしまった。片足をついて下を見るとチェーンが外れている。
「これだよ、もう」
 チェーンが外れた程度なら2回くらい直したことはある。人通りの少ない端まで自転車を移動させてスタンドを立てた。手でチェーンを引っ張りたいけれど、怪我をするのは絶対に嫌だし、きっと手を洗っても綺麗に落ちない油と錆び、服につく埃の臭いを気にしながら満員電車に乗りたくない。だから、なかなか思い切れない。でも時間は刻々と過ぎていく。この辺は自宅と駅のちょうど真ん中、引き返しす時間はないし、この人混みの中を自転車を押して歩く時間的にも精神的にも余裕があるはずがない。しゃがみ込んだまま、大きなため息をつきながら空を見上げる。鞄の中にティッシュペーパーを探すけれど、さっき全部使いきって捨ててしまった。買ったばかりのスヌーピーのハンカチは使いたくない。
「最悪だ」
 それでも遅刻はするわけにはいかない。この状況での最善の選択は手の汚れを我慢してチェーンをギアに戻すこと。それが嫌なら自転車をここに停めて、駅まで走ることだった。

・・・つづきは12月10日に掲載・・・


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