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   自転車のある風景 第7-2話   No Damage Ⅱ

 朝夕はまだ冷たく感じる空気が肌を滑る。木々の葉は視界をどんどんと緑色に染めていく。
「そういえば、あなたの赤い自転車は?」
「部屋の隅っこにバラして置いたまま。あれ、イタリア製なんだよ」
「乗ってないの?」
「こんな素敵な日は自転車乗りにとっては最高なんだけどね」
「そんなに楽しいものなんだ」
「かなり汚れたから掃除をしようと思ってパーツを外してから、そのまま放置。どうして?」
「別に。でも、自転車って脚が太くなるんでしょ?」
「いや、乗り方次第だよ。重たいギアで力いっぱいペダルを踏みこむ乗り方ばかりしてると太腿は大きくなる。軽いギアでくるくると脚を廻せばお尻も小さくなるよ」
「そうなんだ」
 ラジオからはリズム&ブルースが流れる。昔、よく口ずさんだメロディ。
「興味が湧いてきた?」
「本当のことを知りたいだけ。初めて自転車の話をしてくれるわね」
「あなたが僕に聞かなかったからね。野球やサッカーと違って、自転車は生活の道具、スポーツとして興味のない人に自転車の話をすると、オタクが自慢げになにか話してるって程度でしか反応してくれないからね。例えば、25kmって聞いたら、自転車で何分だなって考える自転車脳になってるような人って変でしょ」
「そうかもね。でも、興味が湧くきっかけがなかったら、誰だって自転車のことはなにも知らないわ」
「みんな、自転車にはお世話になってるのにね。僕らには道路がスポーツジムみたいなもんだよ」
「ジムね。自転車って身体にかかる負担が大きくない?」
「自分の体型に合ったサイズで、きっちりとしたポジションで乗れば身体への負担も少ないし、乗ってる姿も格好いい。信号待ちしている姿が格好いい人はついついじっと見てしまう」
「健康にいいのは私にでもわかる」
「ずっと乗っていれば、そのうち体重体組成計の数値が楽しみになるよ」
「あら、いいじゃない。始めようかな」
「その気になってダイエット目的で始めるのもいいけど、自転車の運動効果ってしばらく続けないと身体に変化が見えないから、習慣化は大事なんだ。ほかに自転車の楽しみ方とか利用方法が見つかればいいけどね」
「それってむずかしいことなの? あ、次の交差点を左ね」
 幹線道路から逸れると交通量も減り、なだらかに上る坂道の先に青空が広がった。高層ビルは姿を消して空は低く感じ、街路樹も増えた。変わらず前を走る車の目的地は同じだと確信した。
「もうすぐかな。駐車場が空いていればいいけど」
「車の移動には駐車場の不安はつきものだね」
 
 運よく美術館の駐車場には空きがあった。そそくさと向かったチケット売り場にはすでに列ができていた。
「もうこんなに人がいる」
 彼はこの先にもいろんな場面で起こる混雑を想像して呆れ顔をしている。
「人気があるアーティストのデビュー40周年記念の展示会だもん。でも、みんな行動が早いわね」
 彼の背中越しに、コンクリートの壁に沿ってきちっと並べて駐めてある自転車が目に留まった。
「ねえ、あの自転車を見て」
 彼は軽く頷いた。
「あの路地に入って行った自転車だね」
「先に到着したんだ。あそこから5kmはあるんじゃないかしら」
「それくらいの距離、あの渋滞なら自転車の方が早く着いても不思議じゃないよ」
「じゃあ、裏道を走ってきたんだ」
「裏道ってほどじゃなくて、ある意味、適当だよ。道を間違ったら引き返せばいいし。ふっと迷ってしましそうなときでも、なんだったら歩道橋だって担いで渡るさ。自転車は自在だよ」
「へぇ」
「玄関から玄関へ移動できるって最高の移動ツールだよね。僕でも自宅からここまでくらいなら自転車で走ってこれるよ」
「へぇ」
「乗れば乗るほど自転車の便利さはよくわかるよ。ただ、雨風は凌げないけどね。夏は暑いし冬は寒い」
「へぇ」
 彼の少し長い、少し自慢げな話はほとんど脳に留まらなかった。
「さっきから同じ返事ばかりしてるけど、人の話、聞いてる?」
「へぇ」
 彼が私の目の前にひょいと顔を出した。
「なに、どこ見てるのよ?」
「あ、ごめん。ねえ、ヘルメットって被らなきゃいけないの?」
 あのヘルメットを被って走る自分が想像できない。
「デリケートだね。この街では保険への加入は義務化されたけど、ヘルメットは身を守る安全のため」
「自転車って、もっとたくさん種類があるの?」
 彼がにやっと笑った。
「帰りに自転車屋さん、行こうか。君が知っている以上に綺麗で素敵な自転車がいっぱい並んでるよ。ほら、入場が始まったよ」
「うん」
「さっきの質問の答えだけど。自転車って遠くへ速く移動するだけの道具ではないし、買い物や通勤のためだけのものでもないから、ちょっと視線を変えるだけで景色が変わるさ」
 列がゆっくりと前に進む。手の中の展示会のパンフレットを握りしめて自転車を遠くに見ている私の関心事は、あの路地はどこまで続いて、どこでどうなってるんだろうってことだった。
 今、私の目の前で何かが変わり始めている。

 ・・・おわり・・・次のお話は11月10日掲載・・・

 散走のかたちは人それぞれ。いろいろな人が、好きなスタイルで、ゆっくりとペダルをまわすその時を楽しんでいます。
 OVEのオリジナルストーリー。この主人公たちは、あなたのまちにいるのかもしれません。


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