わたしの散走STORY 第6話
キュッと自転車のブレーキを止めて、河原に座り込んでいる背中に「おじさん?」と呼びかけた。おじさんはゆっくりと振り向き、「ああ君か。よく私だとわかったね」と笑顔になる。私は自転車を置いて河原まで降りていき、おじさんの手元を覗き込んだ。やっぱり絵だ。きれいな水彩画。
このおじさんは駅前に古くからある喫茶店のマスター。ここのホットケーキが美味しすぎて最近は月に2回ほど友人たちとお店に通っている。「どうしたんだい?今日は日曜日だから大学は休みだろう?」という質問に答えながら、私の目はおじさんの絵に釘付けになる。この場所からの景色なら、てっきり川の流れを描いていると思っていたらスケッチブックにあるのは小さな花だ。「お店に飾っているあの絵、おじさんが描いてたんですね」と言うと、おじさんは照れくさそうに目尻を下げた。
この日をきっかけに、休日に時間が合えばおじさんと一緒に絵を描くことになった。おじさんと自転車で待ち合わせをして今日はどこで描こうか、何にしようかと話しながらゆっくり自転車を走らせるこの散走もおじさんに教えてもらったこと。いつも時間に追われてダッシュで自転車をこいでいる私にとって絵になるものがこんなにもあるとは新鮮な驚きだった。場所を決めたらそれぞれに描く対象を見つけ、ただただ黙って絵に向かう。私も美大生として負けてはいられない。
「就職のことで悩んでいるんです」と、とある日曜日の夕刻、絵を描き終えておじさんの店でコーヒーをごちそうになっているときについ打ち明けてしまった。都会へ就職に出たいこと。このまちでは夢のイラストレーターになるのは難しいこと。親が反対していること。「ほんとうにここで夢をかなえることは難しいのかな」「だって仕事があるわけないです。こんな小さなまちに」
おじさんはカウンターの向こうからやさしく話しかける。「私はね、散走を始めてみて気づいたんだ。見ているつもりで見えていなかったものがこんなにたくさんあることに。本当に君は、このまちでできることをわかっているのかな」と。
おじさんが描いていたあの河原の小さな花が頭をよぎる。散走をして気づいた風景、出会う人、匂い、音。私には見えていない、知らないものがまだたくさんある。このまちの中に。「ほら、焼き立てだよ」と差し出されたホットケーキはいつもより甘く、やさしく、私の中で溶けていった。
【Fin】
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散走のかたちは人それぞれ。いろいろな人が好きなスタイルでゆっくりとペダルをこいでその時だけの時間を楽しんでいます。OVEのオリジナルストーリー。この主人公たちは、あなたのまちにいるのかもしれません。