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気負いもなく、無理もなく、意識しないほど自然に、自転車が生活の一部になるということ。

「先日『散歩』がテーマの取材で『散歩じゃなくて自転車ばかり』と答えたんです」
というエピソードを明かしてくれた、森枝 幹さん。どこに行くにも、自転車に乗っているという。でも、自転車が空気のように無くてはならない存在だという森枝さんにも、なかなか「初めの一歩」を踏み出すことが出来なかった時期がずっと続いていたのだという。


「痛風」という名のレストラン


 下北沢の駅の南口改札を出ると、いまにも雨の降りそうなどんよりとした雲が空を覆っていた。昔ほどの尖った空気を感じられなくなったのは、街が変わったのか、筆者が変わったのか。そんなシモキタの街を三宿方面へ向かって南下する。かなり店が途絶えてきたあたりにある北沢川緑道を越えると、左手に白い壁のレストラン「Salmon & Trout」(英語のスラングで「痛風」の意味)がある。店の白壁の風合いや壁に書かれた店名を見て、スコットランドの果ての島で見た店のように感じられたのは、ちょうど降り出した雨のせいでもあったかもしれない。

 店の外壁には自転車が立てかけられている(雨が降り出したので、すぐに店の中に片付けられたが)。窓をのぞくと、魚と自転車の部品が仲良くヒモでぶら下げられている。ここで壁を再度見上げると、左から「Salmon & Trout」「Vohou」「SO!!!」と三つの名前が並んでいる。レストラン「Salmon & Trout」はカフェ(Vohou)、自転車屋(SO!!!)と同居している。少し早く到着したので、店内で待たせてもらうことにした。



 森枝さんはこの厨房で作る料理で、お客を唸らせ、喜ばせているのか。厨房で主人を待つ調理器具たちを眺めながらそのような事を考えていると、自転車に乗ってやって来た森枝さんが「雨が降って来ちゃったよ」と入ってきた。



 森枝さんは数々の名店で修業をしたのち東日本大震災を機に独立、表参道の「246COMMON」に屋台を開く。それから3年。店は繁盛し複数の店舗を持つに至ったものの、屋台で自分の料理を表現することに限界を感じ始めていた。

「代沢に自転車店を出そうと思っているが、自転車だけが趣味の人が集まるような、ただの自転車屋にはしたくない。ライフスタイルの中に自転車だけでなく、食事やお酒、絵や音楽等々、いろいろな趣味を持っているような人たちが集まれる店にしたい。自転車はあくまでもライフスタイルの一部で良い。」
フードライターの友人が話すのを聞いたところから話が転がり出して、自転車店兼レストランを開くことになった。
 そのフードライターの友人が、店のオーナー兼Salmon & Troutのカヴィスト(=ワイン蔵の番人、酒蔵の管理人)、柿崎さんだった。



 店内に飾られている自転車やパーツは、いわゆる「ヴィンテージもの」。マニア垂涎のものばかりということだが、レストランの意匠と考えても美しいと気づかされた。自転車店SO!!!ではそういう自転車を「きっちりと乗れる状態に」仕上げて販売している。近所に工房があり、古いパーツに精通した老練なメカニックがレストアしているのだそうだ。自転車は「私的」なもの。その自転車を見たら持ち主の「人となり」がわかるような、一台ごとに特徴がある自転車を作ってメンテナンスしたい、と話す柿崎さん。もちろんそれは、森枝さんが乗っている自転車にも表現されている。
「こういう雰囲気の自転車が好きで、きっちりメンテナンスをしていくれる人が身近にいる。そうしたら自転車の無い生活なんて考えられないようになってしまいました」
そう語る森枝さんに、自転車を見せていただいた。グリップとトップチューブには、食材(鹿肉)を提供してくれているハンターからもらった鹿の皮が巻いてある。そのほかハンドルの周りには旅行先で見つけて買ってきた「とても大きな音の出る」ホーン(「これはメキシコで買いました」)と鍵(「こちらはタイです」)が、そこにあるのが当然と言わんばかりに陣取っている。海外へ食の旅に出ることが多いという、森枝さんのライフスタイルが自転車に溶け込んでいる。



 ずっと自転車に乗っていた人が最後にたどり着きそうな、森枝さんの生活観が浮き彫りになっているかのような自転車に乗っている。その森枝さんは、実は自転車歴3年と聞いて筆者は驚いた。

 でも話を伺うと、森枝さんが「これまで自転車に乗らなかった理由」は誰にでも思い当たるものだった。


自転車に「乗りたいと思っていても乗れない」理由


前から自転車には乗りたいと思っていたという森枝さん、それは何故かと聞いてみると、
・人がたくさん集まるところが得意ではない。
・満員電車は嫌い。体が大きいので肩身が狭い。
・どこの駅からも遠いところに住んでいる
・一人、もしくは極々少人数で、気ままにどこかへ行くのが好き
答えがポンポンと飛び出してきた。なるほど、どの答えに対しても誰かしらが自転車で生活する事を勧めそうだ。



 子供の頃は普通に近所を自転車で走りまわっていたらしい。中学校くらいまでは自転車に乗っていたが、高校になると電車通学のうえバレーボールに打ち込んでいたため自転車に乗ることはほとんどなくなっていたという。通学の手段でないことはもとより、バレーボール以外のことで怪我をするわけにはいかないという気持ちが強かったようだ。

 最初の修業場所であるオーストラリアのシドニーは、住んでいた都市部が、お世辞にも「自転車向き」とは言えない環境で、危険なので乗らなかったとのこと。ちなみに「ちょっとそこまで」という移動には、自転車ではなくスケートボードを使っていたとのこと。なんとなくオーストラリアらしい。

 そんなこんなですっかり自転車に乗らなくなってしまった森枝さん。日本に帰って来てからもあまり自転車には乗らなかった。自転車向きな生活をしているのに、自転車に乗る気になれなかったのには、もちろん理由があった。
・最初の取っ付き方がわからない
・「イマドキの自転車」にはグッとくるものが無い。
・どうすれば気に入った自転車を見つけられるのかわからない
・自転車の調子がおかしい時に気軽に診てもらえるお店を知らない
仕方がないので、とりあえず安い自転車を買い、乗っていた。

「一歩踏み出そうにも入口すらわからない状態」

自転車を始めたい、と思った時にかなり多くの人がぶつかってしまう壁が、森枝さんの前にも立ちはだかっていた。



 そんな森枝さんに転機が訪れた。Salmon & Troutの開店だ。

 都心で「駅から遠い自宅」から「駅から遠い店」に通うためには、自転車が最適だ。自転車で走るのにうってつけの緑道もある。いままでの自転車に乗るよりも、職場には「グッとくる」自転車があるし、腕利きのメカニックもいる。森枝さんが気に入った自転車を乗りやすいようにセットアップしてもらえるし、猟師からもらった鹿革でカスタムするなど、「より自分らしい」自転車にドレスアップすることも気軽にお願いできた。調子が悪い時にはすぐに直してもらえる。

 乗りたいと思える自転車があり、信頼をおける店があり、自転車に乗るべききっかけがあった。こうして、森枝さんの「壁」には入口が突如現れ、初めの一歩を踏み出すことが出来た。


自転車との日常~好きな道を通って、行きつけのカフェで一杯。仕事に向かう。


 このようにして、森枝さんと自転車との生活が始まった。おそらく、気負いも焦りもなく、あくまでも自然体で。

 仕事の日は、自宅を出ると気分によっていくつかのルートを使い分け、これまた気分によって行きたいカフェに立ち寄ったりして、店に向かう。仕事の打ち合わせで別の場所に行く時にも同様に、基本的には自転車で行く。
「カフェやラーメン屋はもとより、高級レストランにだって自転車で乗りつけますよ」
土砂降りでなければ移動手段は自転車だ。
「自宅が駅から遠いので、外出する時はほとんど自転車です」
自転車に乗る時に、料理のアイディアが浮かんだりすることはないのだろうか
「うーん、それはありません。それよりも自転車に乗ったら周りの状況を楽しんでいますよ。」
寄り道をした先でコミュニティが出来上がり、仕事のきっかけになった。ということもあるらしい。



 東京の街なかで暮らすならば、自転車が良い、という森枝さん。スピードがちょうど良いうえに、好きなところに立ち寄ることができる。景色や匂い、風や湿気、五感で感じて走れるのも良い。体を動かすのも好きだ。


 休みの時には、時に一人で、時に友達と自転車で出かける。行き先は、カフェだったりレストランだったり。友人がラーメン好きで、都心から湘南までラーメンを食べるだけのために自転車を走らせたこともあったという。
「でも普段は、そんなに長距離を走るわけではなくて、ゆっくり、のんびりと走るんです。走っても30kmくらいでしょうか。」
「目的?カフェに行くか、気になっているレストランや食堂に行くか、ですね。」
 話を伺っていると、常にカフェやレストラン、食べ物の話につながっていく森枝さん。頭の中で「食べ物、食べること」が大きな割合を占めているのは、容易に想像がつく。


そんな森枝さんの生活の中のどれくらいを自転車が占めているのだろうと思い、逆に
「森枝さんにとって、料理は生活の何%くらいを占めているのですか」
と聞いてみたら
「そりゃ、100%、全てですよ」
という答えが帰ってきた。あら、自転車の入る余地が1%もないのねと、愕然とする。



 でも、しばらく話を続けていると、森枝さんの頭の中では「100%」の中には自転車は入っていないことに気づかされる。森枝さんにとって、自転車は生活の一部であり、あって当たり前なのだという。
「当たり前過ぎて、意識しないんです」
「自転車が!」と敢えて口にする必要もなく、とても自然に、自転車が空気のように生活に寄り添っている。そういう人がいるということを知った。

近影

森枝 幹
もりえだ・かん
料理人
Tetsuya's(シドニー、オーストラリア)、湖月(表参道)、Tapas Molecular bar(日本橋・マンダリンオリエンタルホテル)で修行の後、独立。表参道の「246COMMON」に屋台を出店。2014年「Salmon & Trout」開店。
Salmon & Trout
〒155-0032 東京都世田谷区代沢4-42-7
080-4816-1831

Photo:Tadashi Nakamura

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