OVE

自ら行動するオートクチュールデザイナー 浅野千幸さん


日本では数少ないオートクチュール(オーダーメイド高級服)のブランド「asano chiyuki」のドレスデザイナーにして、芸能人を含む多くの著名人男女が「ご指名」でスーツを仕立てるテーラー「ac南青山サロン」のオーナー兼デザイナー。2010年から2年連続で「ファッション・アジア」(中国で催される大規模なデザインコンペ)の日本代表に選出され、2011年にはニューヨークでも単独のショーを開催。日本の若手デザイナーの中でも頭ひとつ抜きん出た感のある浅野千幸さんは、実は「OVE南青山」のカフェの常連でもあります。なにしろ「ac南青山サロン」とOVE南青山は徒歩1分という近さ。自然に縁は深まり、2014年7月17日・18日にはOVE南青山を会場に、「asano chiyuki」の新しい方向性を示す展示会も行われることになりました。この機会に、普段は接することの少ないオートクチュールについて、そして現在の活躍に至るまでの浅野さんの履歴について、具体的にうかがいましょう。まずはファッションの仕事を志すようになったきっかけから。

「それがちょっと変わった話なんです。私、中学校の頃に制服が大嫌いだったんですよ。プリーツのスカートにネクタイを締めて、というのが好きじゃなかった。女の子らしい格好より、カッコいい格好が好きだったから。それで美術の先生に『ジップアップのボディコンの制服が欲しい』って言ったことがあって(笑)。そしたら先生が『だったら自分でデザインすればいい』。それで『あ、そうか、デザインして自分で作れば何でも着られるじゃん』と思って。そこからですね」

「普通はそこで『デザイナーになるなんて本当に大変だから』みたいな話になって諦めますよね。でも私の場合、なぜか『じゃあデザイナーになろう』と思い続けて、最終的には母親に『本場で勉強したいから』と言って、フランスにまで行かせてもらうことになるんですけど……」

そう聞くと「理解ある両親に見守られて夢を育てる幸せな少女」といった絵柄が浮かびます。ところが、確かに両親が彼女に向けた愛には深く大きなものがありましたが、当の少女がたどった道は平坦ではなかったようです。




「実は私、すごく『やんちゃ』な時期があって。中学校にはほとんど行ってないんです。ちゃんと通ったのは1年生の1年間だけ。あとはときどき、怒られるために呼ばれて学校に行くくらいで。制服の話もそういうときに出たものです」

「学校に行かなかった理由は、制服のこともありますけど、要するにつまらなかったんですよね。ただ単に遊びたくて、実際遊んでいました。バイクに乗ったり、よその学校の似たような友達と出かけたり。人を傷つけたことはありませんが、あまりに悪かったので鑑別所に入れられる一歩手前までいったほどでした」

とても意外ですが、のちのデザイナー・浅野千幸を理解するために、これは重要な話であるように思えます。自分を既製の型に収めることができないほどのエネルギーが彼女の中に存在したことをうかがわせるからです。話の舞台は彼女の故郷、大阪府八尾市。ご本人の表現を借りれば「小さな田舎町」で、中学に行かない少女はやがて大きな問題に突き当たります。行ける高校がなかったのです。

「なにしろ中学校のテストも受けていませんでしたから。でも高校には絶対に行ってくれと父に頼まれて。もっとも、私はたぶん父の血を引いていると思うんですよ(笑)。父はもともと寿司職人でしたが、余ったネタを捨てなければならないのがいやで、考えた末に会社向けの給食事業を興した人なんです。今は大きくして会社になっていますが、私が小さい頃は家を改装して仕事をしていて、母が経営面で父を支えていました」

「それで高校のことで困っていたときに、私をかわいがってくれていた女性の先生が『ここなら行ける』という学校を見つけてくれて、なんとか入ることができました。それが奈良にある、和裁と洋裁の高等専修学校だったんです」

ごくたまにしか行かない中学校で先生と話した制服の話と、そこから生まれた「自分で服を作ろう」という思い、そして唯一入れる学校が服飾関係だったこと。浅野さんとファッションの運命的なつながりを感じます。引き戸をガラガラと開けて長机で和裁を習う古風なその学校に、浅野さんは中学時代とは打って変わって毎日きちんと通いました。おもしろいと感じたからでした。

「1年目の和裁のときから、何かをやれば一番になることが少なくなかったんです。きれいに縫えたり、和裁のために自分で選ぶ反物が他の子とはちょっと違っていたり。これは次に行った専門学校でもそうでしたが、どうも私、まわりから見ると突拍子もない発想をするらしいんですよ(笑)」

ある意味で破天荒なオートクチュールデザイナー・浅野千幸の今につながる顔が、徐々に見えてきました。




浅野さんは高等専修学校で「本当に勉強するならちゃんとした専門学校に行こう」と決心します。そして大阪市にあるファッションの専門学校に進みます。ここでも浅野さんは、少しばかり変わった学生だったようです。

「私一人だけ、ギャルだったんですよ(笑)。みんな『ヨウジヤマモト』とか『ジャン=ポール・ゴルチエ』とかが好きな時代でしたが、私はファションの専門学校にいながら全然知らなくて、『それなに?』みたいな。当時は今よりもっと体が細かったので、ギャル服じゃないと自分に合わないという事情もありました。みんなの中で私だけサーフブランドとかを着てるから『えっ、一人ギャルがいる!』という感じで(笑)」

「その専門学校は本当に厳しい学校でしたので、課題をこなすだけで精一杯。そもそも私、絵を描けなかったんですよ、デザイン画というものを。なにしろ中学校で何もしていませんから、絵も小学生レベルでした。描けるようになるのに3年はかかっています。フランスに行ってやっと描けるようになったくらいですから」

「実は今に至っても私、デザイン画を描いたりパターンを作ったりすることより、ブランディングのほうが好きなんですよ。もちろん『asano chiyuki』のデザイナーは私一人ですから、仕事では絵を描きますが、どちらかというといろいろ想像しながら全体を考えるほうが好き」

やんちゃだった頃の収まりきらないエネルギーが、この専門学校時代に徐々にブラウズされ、浅野千幸というデザイナーの形をなしていったことがわかります。次はいよいよフランス留学時代、オートクチュールとの出会いです。




「フランスには、専門学校の留学コースに入って行かせてもらいました。言葉に関しては、フランスに行く前に1年間フランス語を習いはしますが、できるまでにはとてもなりません。ですから9月にパリの学校に入学してからは、テクニックの授業は見て理解できても、デザインの授業では先生のお話が全然わからない。感覚で何かを得ようとするような状況でした」

「留学コースには40人くらい入ってきますが、そのうち半分くらいは途中で辞めてしまいます。私たちのときは、パリに行ったのが15人くらい。行ったら行ったで、アパートは自分で探さなきゃいけないし、電話を開通させるのも大家さんとのやり取りも全部フランス語。それで『パリ病』とか『パリの鬱』といわれる状況に陥る人が多くて、またドーンと帰っちゃう。結局、卒業したのは私を含めてたったの5人です」

遊びたいあまりに中学校に行かなかったほどの浅野さんが、よく辞めなかったものです。

「何度も辞めようと思いましたよ。やっぱり1年目が一番厳しくて。まず環境が違いますよね、日本みたいにコンビニはないし(笑)。でも考えてみれば、故郷の八尾から大阪市の専門学校に入った時点で、私にとっては海外に行ったようなもの。都会の学校には本当に頭のいい子も集まってくるし、日本語なのに何を話しているのかわからないということも実際にあったくらいですから。たぶん私は怖いもの知らずなんです。フランスがどこにあるのかもわからないけど『八尾から都会に出たんだし、それと一緒か』みたいな(笑)」

言葉を覚える暇もないほど厳しい課題に追われる日々を送りながらも、浅野さんは「パリの鬱」にはかかりませんでした。2年目を迎える頃から「楽しくなった」からです。そして浅野さんはパリの学校で、自分が本当にやりたかったことに出会います。オートクチュールです。

「パリの学校にはたくさんの科がありました。子供服の科もあればランジェリーの科もあるというように。その中で私はオートクチュール科を選びました。私がやりたいのはこれなんだとわかったんです。私は立体で作っていくのが好きで、だからオートクチュールなんだなって」

「立体が好きだとわかったきっかけは、オートクチュール科に入る前に女性のスーツを立体で作ったことでした。人間の体の曲線をとても美しく表現できたから。たとえば袖も腕の形に合わせてちょっと曲げて作ると、シワにならずに美しい立体になります。そういうことにとても感動したんです」

「大量生産の服はパターン上で数字で作っていきますが、立体は感覚で作ります。私はずっと感覚でやってきた人間なので、立体が向いているんですね。オートクチュールでは、まずトワルという安い生成りの布で立体を作ってから本当の生地で作りますが、ほとんどが手作業で、すごく難しいんです。でも、たとえばヨーロッパのビスチェなどは立体でしか作れないものです。体にフィットさせるためにカーブがいっぱいあるので、面で作ることができないんですね。だから小さなパーツをいっぱい作って立体にしていきます。それがまた本当に面倒なんですけど、出来上がると体にフィットして、すごくきれいなんです。数字で計算されたものではない、感覚と経験から生まれるきれいなライン。私はそれが本当に好きなんです」

きれいであること、美しくあること。浅野さんが求めていたものがはっきりしました。その実現に最も適した手法あるいはジャンルがオートクチュールであり、スーツであったのです。




パリの学校を卒業した浅野さんは、働きながら4年間パリに残ったあと、2001年に帰国します。自身のブランドを立ち上げるためでした。フランスをベースに活動するという選択肢はなかったのでしょうか。

「日本人がフランスで仕事をするのはすごく大変なことなんです。外国人であるからという理由でまず働くことが困難ですし、独立したくても動きがとれなくなってしまうんですね。フランスはアートの国ですから、無名の学生の才能を見出して後押しすることなどは積極的にしてくれますが、仕事になると一転してすごくシビア。特にオートクチュールは市場が限られているので余計に難しい。そこで日本に帰って独立しようと決めました」

日本では、幅広い層がファッションにある程度のお金をかけます。それは好条件といえます。その一方で、たとえば有名モデルの名前を冠したブランドがもてはやされる、売れるデザインのコピーがたくさん流通するといった、ヨーロッパに比べると少々アマチュア的な傾向も持つのが日本の市場です。そこで自分に何ができるのか、あるいはどうしたら自分を貫き通せるのかを知るために、浅野さんはブランド立ち上げまでの間にさまざまな仕事を経験します。それはショップの販売員(売上ナンバーワンを達成したそうです)から、大企業の量産品のデザインとブランディング、ブランド立ち上げのコンサルティングに至る多彩なものでした。その間、浅野さんは日本における豊かな人脈も培っていきます。

「たとえば岡山にある大きなデニム工場の社長さんが『お前はまだ甘い。独立前に日本の企業で働け』と言って会社を紹介してくださったり。その方は電話を一本引くところから事業を興した人ですが、そういう人が私を認めてくださるんです。自分から行動をするということと、根性がありそうだということで。実際に私自身、苦労を苦労と思ったことがありません。これまでしんどかったけど、いつも楽しいと思ってきましたから」

ひと通りの経験を積んだあと、浅野さんは2009年に自身のブランド「asano chiyuki」を立ち上げます。そしてオートクチュールのドレスを手がけつつ、「ファッション・アジア」への参加やニューヨークでのショー(これも人との幸運な出会いから実現したものでした)を経て、2012年にオーダーメイド専門の「ac南青山サロン」を開設。オートクチュールの女性デザイナーが手がける、高品質で美しいスーツブランドの噂は口コミでどんどん広まりました。俳優の岩城滉一さんが「宇宙旅行会見」を行ったときに着ていたのが浅野さんのスーツだったことも、「asano chiyuki」が広く世に知られるきっかけになりました。

「スーツは女性用、男性用ともに手がけています。男性のスーツでは、仕立てをお願いしている『ファイブワン・ファクトリー』がもともと持っていた型を使わせてもらっています。その型はメンズのプロといわれる先生が日本人の体型を研究し尽くして作り上げたもので、私が手を入れる余地がまったくないほど完成されています。ウエストもちゃんと絞られていて、すごくきれいなんです。それを基にして、オーダーされる方に合わせて私が細部の数字を調整します」

「オートクチュールのデザイナーは変わったものを作る傾向がありますが、私の場合、デザインはシンプルにして、ウエスト位置がここにあると脚が長く見えるとか、どこにどういうカーブを持ってきたら美しく見えるとか、そういうことを考えるのが大好きで。立体って本当におもしろくて、必ずしも体にぴったり作ればスタイルがよく見えるというわけではないんですね。先ほど例に挙げたビスチェも、あえて少しだけ浮かせることでウエストが細く見えたり、お尻が小さく見えたりもします。感覚と経験できれいなラインを作っていくのが、私は大好きなんです」

こうして浅野さんは、日本のファッション界で高度な仕事をこなす地盤を作り上げました。ロングインタビューの最後に、次項では浅野さんが現在考えていることと、近い将来のことについてうかがいましょう。




浅野さんは今、スーツと並行して、ウエディングドレスを中心にした女性のドレスにも力を入れようとしています。そしてスーツとドレス、両方に共通する大きなテーマは「メイド・イン・ジャパン」です。

「私の服は基本的に、日本で作る意味のあるものにしたいと思っています。フランスでの卒業コレクションのとき、着物の生地でドレスを作ったらフランス人がすごく喜びました。日本にいるとわかりませんが、ヨーロッパから見れば日本は宝の山なんですね。ところが日本に帰ってきて京都でタクシーに乗ったら、運転手さんがもともと友禅染の職人だったというんですね。なぜ運転手をしているのか尋ねたら、『もう需要がないんですよ』。それを聞いて、フランスがアーティストを助ける国であるのとは逆に、日本は見捨てる国、宝を捨てる国なんだと思って……。だったら私が、着物はできないけど、ドレスに着物の職人のテクニックを入れることはできるだろうと。それで京都の絞り染めの職人さんのところに行って、『どうしてもこの薄い絹に絞り染めをしてほしいんです』と、無理を押して頼み込みました。その生地で作ったドレスはニューヨークや中国のショーにも出しましたが、独得の自然な染め方が他の人と違うということですごく好評でした。外国の人は日本のよさを知っているんですね。先日は和紙の繊維で織った生地のウエディングドレスも作りました。すごくしなやかで柔らかいんですよ」

「うちはスーツも全部メイド・イン・ジャパンです。私は日本のものを使うことで、みんながいい思いのできる仕事をしていきたい。だからファイブワン・ファクトリーの皆さんにも、作った服にこういう高い評価をもらいましたといったことを、できるだけお知らせするようにしています。皆さん本当に喜んでくれますし、おもしろそうだということで若い人がファクトリーで働きたいと言ってくるようにもなりました」

もう一つの方向性は、ブランディングの力を他業種にも活かしていくことです。それもまた浅野さんの才能を余すところなく発揮できるという点で見逃せない展開です。

「デザインに限らず、今までと違うことをして、ちょっと華やかにしていくということですね。男性のスーツを手がけたのも、そもそもはちょっと地味なイメージのあるテーラーというものを華やかにしたいと思ったことがきっかけでした。ファイブワン・ファクトリーのユニフォームも私がデザインさせてもらったんですよ。工場が明るく楽しくなるように、アポロチョコレートのイメージで、ピンクのシャツに茶色のチェックのヴェスト。ご年配の先生や裁断師さんたちがみんなそれを着て働いているから、もうめちゃくちゃかわいくて(笑)」

最初に工場を見学に行った時点でユニフォームのデザインを申し出たというあたり、自分から行動するデザイナー・浅野さんの面目躍如たるものがあります。浅野さんは現在、自治体や異業種の老舗メーカーとも組んでブランディングの仕事を進めています。また先日はOVEとの縁で、駐輪場のあり方に関してもアイデアを出しました。それは「駐輪場にジャングルの絵を描いて、アロマの香りを漂わせてほしい」というもの。なるほど、それだけであまりコストをかけることなく駐輪場特有の殺伐とした雰囲気を一掃でき、女性でも使いやすくなるでしょう。

「私の感覚は女性寄りなので、男性が作った既成概念とは真逆のことを言うことが多いみたいです。でも『そんなことできない』ということでも、やっていくと本当にできてくるんですよね。そういうお仕事はとても楽しいですよ」

「逆にいえば、洋服に関しては私自身が固定観念にとらわれている部分もあるかもしれません。一度、スーツの肩幅をものすごく出してほしいと言われたことがあって、『それはちょっと……』と答えたら、その方が『どうして? 肩に棒を入れればできるじゃないか』って(笑)。実際に棒を入れることはできませんが、そう言われてみると『そうか、なんらかの方法でそうすればいいのか』と考えるようにはなるじゃないですか。それと同じことを、私が他業種の方々に提言していくような感じです。私が経験してきたことが基ではありますが、『何か違う発想でおもしろくしていきましょう』ということですよね」

「日本では決まったレールの上を歩むような人生がよしとされがちです。そこから一歩外に出ようものなら『なんなの、あの子』と言われてしまう。皆さん、それが怖いんじゃないかなと思います。でも私自身はそれを見ながら『みんな、なんでやらないのだろう』と思ってやってきてしまった……ということでしょうか(笑)」

浅野さんの笑顔に、八尾のやんちゃな少女の面影が重なります。これからも浅野さんは、持ち前の行動力で意味のある仕事をたくさん実現していくことでしょう。もしかしたらOVEとのコラボで、浅野さん流の自転車ファッションの提案などもあり得る……? 今はまだわかりませんが、実現したら必ずやおもしろいものが生まれることでしょう。浅野さんと「asano chiyuki」からますます目が離せません。

また、波瀾万丈(?)のデザイナー人生を送る浅野さんのことですから、おもしろいエピソードや独自の哲学と実践のお話は、1回のインタビューではとても紹介しきれません。いつかまた、この続きをうかがう機会が訪れますように。ご期待ください!


近影

あさの・ちゆき
20歳で単身パリへ、オートクチュールを学び卒業後パリのファッションメゾンで仕事したのち、26歳で日本帰国。企業でのブランド立ち上げやプロデュース、ブランドディレクションなど幅広いジャンルの仕事を手掛け、2009年に自身のブランド「asano chiyuki」をスタート。日本人女性が持つ「大和撫子」の奥ゆかしさとあでやかさをデザイン全体で表現し、女性の体のラインを美しく見せるスタイルにこだわり、京都の絞り染めや日本の伝統技術を取り入れたドレスなどを発表。
2010年、2011年と2年連続「ファッション・アジア」(中国のデザインコンペ)で日本人デザイナーの代表として中国に招かれファッションショーを開催。2011年にはニューヨークでもコレクションショーを開催。ドレスに限らずデニムカジュアルブランド「GLAW」もニューヨークで発表。
「ドレスにはスーツがつきもの」ということで、50年以上続く老舗オーダーメイドスーツの「ファイブワン・ファクトリー」の協力のもと、オーダースーツのコレクションを新たに展開。
2012年にはオーダーウエディングドレス&タキシードも展開。TBS番組『Asian Ace』ウエディングドレス対決でドレスアドバイザーとして出演、アパレル対決で初の日本勝利を勝ち取るなど、日本人代表として日本の伝統文化を守るためメイドインジャパンを世界に発信し続けている。

http://ac.asanochiyuki.com/
http://asanochiyuki.com/

Photo:GOTO AKI

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