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至高の一杯に魅せられたコーヒー専門店マスター


十数名の男女が一人の男性の手元を見つめています。男性の左手には挽いたコーヒー豆が入った木綿の袋、右手にはポット。ポットの口から袋の中に、お湯が少しずつ注がれます。赤褐色の滴が少しずつ、下に置かれたピッチャーに落ちていきます。男性は山形県鶴岡市の「咖啡専門店 コフィア」のマスター、門脇祐希さん。木綿の袋でコーヒーを淹れるネルドリップという手法の、文字どおりの「マスター」です。この日(2014年11月30日)は門脇さんを講師に迎えたイベント「日々の手仕事 ネルで咖啡を淹れる」の開催日。ネルドリップの神髄を目と舌で確認しようと、コーヒーを愛する人たちがOVE南青山に集まりました。

「ネルドリップはコーヒーの旨味を抽出し、邪魔になるアクを抽出液の中に入れないために行う作業です」
「お湯は注ぐのではなく、コーヒーの上に置いていく感じ。粉の一粒一粒がお湯を吸う、その手助けをするイメージで」
「コーヒーは立って淹れるもの。身体がバネに吊られているような状態で、重力に拮抗しながらお湯を粉の上に置いていく」
「粉が保水した状態になると、上に泡が浮いてきます。この泡がアクです。これが抽出液の中に入らないように」

門脇さんの口から技術の片鱗が惜しみなく語られます。やがて抽出が終わったコーヒーがカップに注がれて参加者の手元に配られました。「スプーンでコーヒーを少しすくって、中央に落としてみてください。濁りのないコーヒーならば滴が玉になってスーッと走っていきます」と門脇さん。確かに滴がスケーターのように液体の表面を走ります。液体の色は濃く、同時に赤く鮮やかでもあります。口に運ぶと……なんておいしいコーヒー! いえ、むしろ「コーヒーってこんな味だったのか!」が正しい感想かもしれません。誰にとっても衝撃のコーヒー体験であることを、参加者たちの驚きの表情が物語っています。「舌にコーヒーの味が残る時間が長い」と、笑顔で感想を述べる女性もいます。

この素晴らしいコーヒー(コフィアでは「咖啡」と表記)を生み出すネルドリップの神髄とは? イベント終了後、門脇さんに詳しい話をうかがいました。




ネルドリップは1800年に発明されました。フランスでのことです。では、それ以前のコーヒーはどのように淹れられていたのでしょうか。

「いちばん最初はコーヒーを漉すという発想ではなくて、煮出しコーヒーですよね。しかしそれだと粉が混じってしまいますから、液と粉をいかに分離させるかということで考案されたのが、容器の中にぶら下げた布製の漉し袋の中に粉を入れてお湯を注す、という方法でした。これだと粉は入りません。ところが抽出液の水位が上がってくると、袋が液に浸かってしまう。つまり抽出液の中に、不要なアクが混じってしまうわけです」

そこで、漉し袋が抽出液につからない高さにすることで、抽出液と粉の分離だけではなく、抽出液とアクの分離も実現しました。またネルドリップでは、私たちが普段見慣れたペーパードリップと異なり、漉し袋が布であることにも非常に大きな意味があります。

「イベントでご覧に入れたように、ネルドリップは漉し袋が布製ですから、粉がお湯を最大限に吸収したとき、袋が放物線を描くようにふくらみます。だからこそ、最初にコーヒーの『エキス』(後述)が徐々にポタポタと出てきて、次に少し色の薄くなった液がツーッとよどみなく落ちてくるという変化が生じるわけです。これがペーパードリップだと紙のフィルターの周囲が固定されていますから、最初から最後までポタッ、ポタッという一定の出方になりますよね。つまりネルドリップとペーパードリップでは、まさに抽出が行われている“現場”での、お湯の滞留時間と温度変化に大きな差があるわけです。もともとペーパードリップは布の漉し袋の後始末をする手間を省くために発明されたものですから、ネルドリップに近づけるよう努力することはできても、ネルドリップと同じにはなり得ない、ということなんです」

ネルドリップで最初にポタポタと出てくる「エキス」はコーヒーの旨味が凝縮された液体であり、コーヒーの旨味はエキスにあると門脇さんは言います。次第に、袋がふくらみツーッと落ちているのは、うすいオレンジ色で旨味がない液体です。ただしエキスだけで止めてしまうと旨味が濃すぎて、毎日、あるいは1日に何杯も飲むコーヒーには適しません。そこで、ちょうどよい加減までエキスの旨味を調整するために、ツーッと落ちる液も抽出します。しかし粉の上に浮いた泡、すなわちアクを、飲むコーヒーの方まで落とすことは絶対にありません。エキスの濃度をコントロールしながらも、アクは入れない。そのために必要なのが、冒頭の門脇さんの言葉にある「お湯を置いていく」「重力に拮抗するように」といった加減、すなわち技なのです。すなわちアクを、抽出された飲むコーヒーの方まで落とすことはありません。

「これは経験則。自分で言うのもおこがましいと思いますが、職人の仕事というのはどの分野でもそういうものだと思います。想像力を駆使して、見えない袋の中を想像しながらお湯を置いていく。コーヒー豆の焙煎も同じで、釜の中は見えないから想像力を働かせます。その手がかりは音であったり煙の香りであったり、毎日の仕事の中で伝わる何かを拾っているわけです」

門脇さん自身の手によって適正に焙煎され、適正に抽出されたコーヒーのおいしさは前述の通りです。イベントではエキスを味わう体験もありました。スプーン1杯のエキスのとてつもない旨味に、参加者の驚きはさらに高まりました。

「要するに雑味がないということです。それは抽出方法だけではなく、焙煎にもよるものです。もちろん、プロであっても完璧はあり得ません。でも、できる限り完璧に近いところを目指して行うと、雑味のない、スキッとしたコーヒーになります。それは苦みのあるなしや酸味の強弱にかかわらず、です」

「ちなみに酸味と『酸っぱみ』は違うんですよ。世の中に流通している一般的なコーヒーを飲んで、皆さんが酸味と思っていらっしゃるのは、あれは酸っぱみなんです。味わうべきは酸味であって、酸っぱみは味わう必要がありません。ほとんどのコーヒー豆は、実は苦みより酸味が主で、酸味がなければ品がなくなります。この酸味は焙煎によって生まれるものです。生の豆を焙煎すると、ある段階で豆自体が持っている酸っぱみが酸味に変わります。つまり焙煎は本来、酸味を引き出すための作業であるはずなんですね。しかしそこまで至らないとコーヒーは酸っぱくなります。もっとも、古くなって酸化したために酸っぱくなる場合や、お湯の抽出温度が低すぎて酸っぱくなる場合もありますが、プロならどこに起因する酸っぱみか、飲めばすぐにわかるはずです」

門脇さんのていねいで理論的なお話を聞いていると、コーヒーを見る目の“解像度”が上がるような気さえします。それが達人の話というものでしょう。しかし門脇さんは、自分の話は師匠の「受け売り」だと明言します。達人が師匠と仰ぐ達人とは、かつて東京の吉祥寺にあった自家焙煎とネルドリップの名店「もか」のマスター、標交紀(しめぎ・ゆきとし)さんです。標さんとの出会いが、門脇さんを達人の道に導いたのです。




東京で過ごした学生時代、コーヒーに興味を持って自家焙煎の看板を掲げる店を見つけては入ってみて、そのたびに「裏切られた」と感じていた門脇さんが、やっとたどり着いた店が吉祥寺の「もか」でした。店主の標交紀さんは「コーヒーの神様」ともいわれた名マスターです。門脇さんは卒業後、「もか」のスタッフとして働き始めます。そして平成19年(2007年)に標さんが他界するまで、師匠を慕う一人の弟子として行動をともにしました。今、吉祥寺に門脇さんが足を運ぶことはほとんどありません。「もか」がないことが「つらすぎる」からです。「もか」と標さんの存在は、職人・門脇さんのほとんどすべてでした。

「私は覚えが悪く、失敗が多く怒られてばかり。にもかかわらず、マスターはよく目をかけてくれましたが、あとで聞いたところでは『門脇君は何でも言いやすいタイプだから』だそうですが(笑)、ただ一生懸命やってた姿は伝わっていたのかなと思います。私が入って間もない頃、定休日に店の中でマスターと私が話をしていると入り口に人影が現れました。するとマスターは『今日は休みですから』。誰だろうと思って見ると、相手はコーヒー界の重要人物の一人でした。びっくりして『いいんですか』とマスターに聞いたら、『今日はキミと話す約束だ。彼とは約束をしていない』」

「私はマスターに理想の父親を見ていたのかもしれません。結局は人柄なんですよ。仕事の上での師匠と弟子の関係も、師匠の人となりがわからないと成り立ちません。たとえば二人連れのお客さんが別々のものを頼んで、マスターと私がそれぞれを作るようなとき、同じタイミングで出来上がらないといけません。だから私はマスターの動きを見るわけです。マスターが『もうちょっと炎を弱く』と言ったとしても、それは曖昧な言葉ですよね。その『ちょっと』のニュアンスを察知するのは、師匠のことが多少でもわかって初めてできることです」

「もか」でのそうした日々が、達人・門脇さんを育てました。

「師弟関係が人間関係であるということは、自分が焙煎するようになって初めてわかりました。使うのはローテクの権化のような旧い焙煎機ですから、本当に感覚の世界。『マスターならここでこうするだろう』と理解できなかったら、真似ができません」

門脇さんによると、ネルドリップもさることながら、コーヒーで本当に重要なのは焙煎なのだそうです。マスターが「もか」でネルドリップを採用していたのは、それがベストの方法だと早い時期に気づいていたからですが、焙煎に関しては「さしものマスターも七転八倒したはず」と門脇さんは言います。しかしそこから奥は本当に達人の世界の話です。焙煎に関する深いお話は、機会を改めてうかがうことにしましょう。




「私のコーヒーはすべてマスターの受け売り。細かい点では差は当然あると思いますが、『今、目の前にあるカップにベストなコーヒーの液体を収める』ということにおいては、マスターも私も同じです。実は、瞬時に何杯も同時に淹れられないネルドリップは営業向けではないかも知れません。それでも何がベストかに気づいてしまった以上、他の方法でやるわけにはいきません。コーヒー屋として使命感を持って旗を振っていくのであれば、ベストを求めなければいけないと思うんですよ」

そのためには「自分に負荷をかけ続け、前に進み続けなければ」と門脇さんは言います。身体の調子が優れない日も、お客さんにはわかってもらえないかもしれないと思うようなことでも、もうひと頑張りしてやり続けていくという覚悟が門脇さんにはあります。その姿勢が、本当に価値あるもの、本当に上質なものとは何かを人々に気づかせるコーヒーとして結実しているのです。


近影

かどわき・ゆうき
山形県庄内出身。東京都内の大学を卒業後、東京吉祥寺の名店「もか」で11年間修行。故郷に戻って以降、鶴岡駅前近くで珈琲専門店「コフィア」を経営する。この道、34年。

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