OVE

「響き」を奏でるパーカッショニスト 永井朋生さん


「おりん(お鈴)」という楽器をご存じでしょうか。名前は初めて聞くという人でも、きっと目にしたことがあるはずです。たとえば家の仏壇で小さなものを。あるいはお寺で大きなものを。そう、叩くと澄んだ音のする、あの金属製のお碗が「おりん」です。一般的には仏具ですが、実はれっきとした打楽器の一種です。この「おりん」を中心にしたさまざまな打楽器から、それぞれが秘めた美しい「響き」を引き出す音楽家がいます。パーカッショニストの永井朋生さんです。パーカッショニストというと、ダンスミュージックのバンドなどで激しいリズムを叩き出すイメージがありますが、永井さんのソロ演奏はそれとは少々異なり、楽器の響きによって立体的な空間を創り出す、どちらかといえば静的で美術にも通ずるアプローチです。永井さんはどのような経緯でこのユニークなスタイルを打ち立てるに至ったのでしょうか。OVEでのコンサートを控えた永井さんを東京都八王子市にある手作りのスタジオに訪ね、演奏スタイルに劣らぬほどユニークな履歴や「おりん」との出会いの物語など、たくさんのことをうかがいました。

「父親が美大出身のデザイナーだったので、幼少時からまわりに変なものがたくさんある環境で育ちました。父の教えは、『ないものは自分で作れ』。ファミコンが流行ったときなどは、僕も欲しいと言ったらナイフを一本渡されて『これで何か作って遊べ』と(笑)。そのときはさすがになんてひどい親だろうと思いましたが、今思えばありがたい経験をさせてもらいました。ちなみに皆さんが見慣れたピンクの公衆電話、あれはうちの父がデザインしたものです」

永井家は「作ること」を旨とする家庭でした。そして後述するように、永井さん自身もいったんは美術の道に進みます。現在も、永井さんのスタジオの隣は弟で鍛金作家の理明(よしあき)さんと父の武志さんの工房になっており(スタジオ・工房ともに永井兄弟が自ら建てたもの)、永井さんも頻繁に工房に顔を出しては打楽器を自作しています。スタジオのいたるところに、それらのユニークな楽器がたくさん並んでいます。大きなガスボンベに切れ目を入れた楽器まであります。では、永井さんが音楽に触れるきっかけはどこにあったのでしょうか。

「ちょっと変わった家庭環境の中で、僕は小さい頃からピアノを習っていました。自分からやりたいと言ったように記憶しています。最初から音楽は好きだったんですね」

「それから小学校6年のときに初めてドラムを叩きました。YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の曲を演奏したくて、仲間3人でバンドを組んで『じゃあ僕がドラムやるよ』と。たまたま音楽の先生がドラムを叩く人で音楽室にドラムセットがあったので、それを借りて練習しました。その成果を小学校のお別れ会で発表したときの恥ずかしいビデオが今も残っています(笑)」

永井さんが最初に出会って親しんだ打楽器は、ポップスやロックといった音楽を通じて私たちにもポピュラーな存在であるドラムセットでした。中学校と高校ではサッカーに明け暮れた永井さんでしたが、美術系の大学に進んだ頃から改めてドラムにのめり込むようになります。それが永井さんのキャリアの、直接のルーツとなります。また、永井さんの音楽の特徴でもある美術との関わりもそこから始まります。大学受験前後からの経緯を聞きましょう。




「育った環境が環境でしたので、自然に絵は描き始めていましたし、美術大学に進むことも自然な流れでした。ただ当時、絵がうまく描けていたかというと決してそんなことはなく、大学受験にあたっては美大専門の予備校に通いました。前から絵を習っている子たちはみんな上手でしたから、予備校では悔しい思いもしましたね」

それでも、永井さんが最終的に入学したのはあの東京芸術大学。父から受け継いだ素晴らしい才能があったに違いありません。

「いえいえ、そんなことはないですよ。なにしろ芸大に入るのに3年かかってますから(笑)。実を言うと、その前に僕は父の母校である武蔵野美術大学に1浪して入学しているんです。そして、そこでジャズ研に入ってしまったのが運の尽きでした(笑)」

「当時はほとんど学校に通わず、ジャズ研と、武蔵野美術大学入学後に講師をするようになっていた予備校の往復みたいなことをしていましたね。僕はこのジャズ研時代に初めて、ちゃんとドラムを始めたんです。僕らの世代は高校でニルヴァーナやメタリカなどのハードロックを経験していますから、僕もジャズ研に入るまではロックの8ビートを叩いていたんですよ。でもジャズ研でそれをやったら、先輩に『うるさい! 4ビート(ジャズドラムの基本となる繊細で高度なリズム)を叩け!』って怒られて(笑)」

「ジャズ研ではトリオとかカルテットといったコンボでの演奏をしていました。もう楽しくて楽しくて、本当に遊びの延長という感じでいろいろなことをやっていましたね。今思えば、あの頃は本当にドラム小僧でした」

永井さんは武蔵野美術大学ジャズ研での活動を通じて、ドラマーとしての実力を身に着けていきます。この活動は東京芸大入学後も途切れることなく続き、最終的にはパーカッショニストとしての現在の活動へと、姿を変えながら発展していきます。




ところで、一方の専門である美術のほうは、東京芸大入学によってどのような展開を迎えたのでしょうか。

「東京芸大では鋳物を専攻しました。東京芸大には美術学部と音楽学部があって、僕は美術学部工芸科の鋳金専攻です。実はうちの父の先生が鋳物作家の馬場忠寛先生で、現在では僕がその影響を引き継いだような気がしています。でも芸大の専攻を決めるときは父や先生に鋳物を勧められたわけではないので、これも自然な流れだと思います」

「鋳物を選んだのにはもう一つ理由がありまして。ドラムの金属製の部品を自分で作ってみたかったんですよ(笑)。それで芸大の鋳物の先生のところに相談に行ったら、僕の思いをすごくよくわかってくれて、いろいろ教えてくださったんです。それで先生が好きになって、鋳金専攻を選びました。肝心のドラムの部品は結局、自作すると大変なコストがかかるので、買ったほうがはるかに安いということがわかりましたが(笑)」

音楽と美術は芸術表現における二大カテゴリーですが、その二つが永井さんの中では最初から自然に、渾然一体となって存在していたことをうかがわせるエピソードです。

「音楽と美術の両立についてはよく尋ねられますが、僕自身は基本的に、違うことをしているというイメージがないんです。特に現在のようにソロのパーカッショニストとして活動するようになってからは、音楽と美術の境目はいっそうなくなってきていますね」

「実は東京芸大時代も、ジャズ研での活動と並行して、ずっと金属や木で楽器を作っていたんですよ。今使っている楽器の中にも、学生時代に作ったものがたくさんあります。当時、楽器を自作して芸大の音楽学部に持っていくと、彼らは音楽の専門家だから僕より上手に演奏するわけです。それがもう悔しくて、練習してはまた新しい楽器を作り……というようなことを繰り返していましたね」

永井さんの中では音楽と美術が分かちがたく結びついていました。とはいえ大学卒業を迎える頃になると、音楽と美術、どちらの道に進むのかという問題は発生します。永井さんの心は決まっていました。

「東京芸大には大学院も含めて6年間、通いました。大学院の頃には物を作ることの魅力もわかり始めてきて、勉強していろいろ作っていましたね。でも一方でずっと音楽も続けていて、自分の中では音楽をやっていきたいと心が決まっていました。学校に行かせてもらっている手前、親には『ドラム叩いてるけど趣味だよ』みたいなこと言ってましたけど。親は僕が美術の道に進むと信じてますから、なかなか言い出せなくて(笑)」

それでも自分の心を裏切ることはできません。永井さんは東京芸術大学大学院を修了後、一人のドラマーとして厳しい社会に漕ぎ出します。そして、自分にとって自然な表現とは何かを追い求めながら、しばしの「助走期間」に入ります。




「プロのドラマーにはなったものの、仕事もありませんし、どうしてよいかすらもわかりませんでした。そこでジャズのバンドをやったり、自分のバンドを作ったり、アイドルのバックバンドをやらせてもらったりと、ドラムと名のつくことなら何でもやっていくしか道がありませんでした」

「自分のバンド活動としては、今『渋さ知らズ』というバンドでピアノを弾いている山口コーイチさん、ジャズベーシストの海道雄高さんと3人で『EPOCUS(エポカス)』というユニットを組んで、映画のサントラをやったり、インドネシアにツアーに行ったりしました。EPOCUSは全部が即興のバンドで、全員がストップウォッチを持ってステージに上がり、『せーの』で始めてから何分何秒でこういうフォームに変わる……というような、少し変わったこともしていましたね」

そうした演奏をこなしながらも、ある疑問が永井さんの中ではっきりとした形をとり始めます。それは、自分の出したい音を出せる楽器は本当にドラムセットなのだろうか、という問いかけでした。

「僕はドラム小僧でしたから、世界の一流ドラマーみたいなすごいテクニックで叩けるようになりたいと本気で思っていたし、研究もしていました。でも、あるときから『僕の頭の中で鳴っている音って、ドラムセットとはちょっと違うんじゃないか』と思うようになったんです。ドラムの音よりも、そうじゃないものの音のほうがカラフルに聞こえるというか」

前述のように、ドラムセットも大小の太鼓とシンバルで構成された打楽器です。ただセット自体が、もともとブルースやジャズといったアメリカの黒人音楽を演奏するために誕生したものなので、それらの音楽や、ブルースから発展したロックなどを演奏するバンドの中で大きな力を発揮するという特徴があります。つまり「叩いて音の出るものなら何でもオーケー」という幅広さを持つ打楽器の中では、ドラムセットはある意味で特殊な位置にあるともいえます。この特殊性が、永井さんの場合には一種の「狭さ」として感じられたということでしょう。

「僕自身、自分の中にブルースが流れているわけでもないし、ネイティブに英語を話すわけでもありませんし。でも一方で、何人かのスーパードラマーをずっとアイドルにしていたし、ドラマーであることからなかなか抜け出せない自分もいたりして……」

「そうした悩みから抜け出す一つのきっかけが、今思えば大学院の最後の頃にありました。あるギャラリーで美術の個展を開いたとき、エンディングパーティで自作の打楽器を初めてソロで演奏したんです。今からすれば稚拙なものでしたが、あれがチャレンジの1ページ目だったと思います。プレッシャーと緊張でいっぱいいっぱいでしたが、バンドの一員としてのドラマーではなく、自分の個展で、自分の演奏も披露できて、ということがすごくうれしかったんですよね」

「美術の世界では、絵描きも彫刻家も最初から最後まで一人で考えて作って、『私の作品はこれです』と言えるものがありますよね。僕はドラマー時代、『何やってるの?』と聞かれて『いろんなバンドで叩いてるよ』としか答えられなかったのが、少し歯がゆかったんです。誰かの作品がなければ僕の存在はないのかな、と思い悩んだ時期がしばらくあって。そのこともソロでやりたいということにつながってますね」

冒頭で、かつて親にファミコンをねだったときにナイフを一本渡されたというエピソードを紹介しました。そのときは結局、泣いて頼み込んでファミコンを買ってもらったそうですが、にもかかわらず永井さんはファミコンにすぐ飽きてしまいました。「誰かの作ったプログラムの中で遊ぶのが性に合わなかったのかな」と永井さんは言います。音楽の話も同じです。バンドの一員ではなく、ソロとして自分の作品を世に問うことが永井さんの本懐でした。だからこそドラマーから広い意味でのパーカッショニストへと、一歩を踏み出す必要が永井さんにはあったのです。しかしそのためには、ドラマー・永井さんに負けない、パーカッショニスト・永井さんとしての柱が必要です。それがなかなか見つかりません。同じパーカッショニストとの打楽器デュオなど、イメージに近い活動も始めてはいましたが、永井さん自身に決定的な鍵が欠けていました。そこに、「おりん」が姿を現すのです。あの、未曾有の大災害とともに。




「パーカッションでソロといっても、コンガやボンゴのようなラテン系の打楽器をすごく叩けるわけでもないし、じゃあいったい僕は何をやるんだろうと悩んでいた頃、弟の工房で木や金属などを叩いて鳴らしているうちに、自分は結局『金属の、長い音のするもの』が好きだとわかったんです。たとえば仏具で知られる『おりん』。そこで、あれは鍛造なので自分では作れませんから、仏具店に片っ端から電話をかけて、どうすれば購入できるか問い合わせました。でも、音楽に使うなんて不謹慎とまでは言わなくても『うちは仏具屋だから楽器はありません』と切られてしまうことが多かったんです」

「ところが、一軒の仏具店の女性が僕の話を丁寧に聞いてくださって、『うちに塗装がはげてしまって売り物になりにくいものがあるから、もしよかったら使ってください』と、見ず知らずの僕に『おりん』を送ってくださったんです。それが僕の手に届いたのが2011年3月11日の午前でした。仕事に出かける直前でしたが、うれしくて、さっそく開けて叩いてみたら、『うわあ、すごい!』のひと言。もうニコニコして、それをクルマに積んで仕事に出かけました。空き時間に鳴らしてみようと思って」

「それでお昼休みに仕事先から、その仏具店にお礼の電話をかけました。でも先方もお昼休みで女性がご不在だったので、また夕方かけますと言って仕事に戻りました。そのとき、あの地震があったんです」

東日本大震災という未曾有の大災害に日本中がパニックに陥る中、電話をかけるどころではなくなってしまい、永井さん自身、帰宅することもできませんでした。翌日、やっと家に帰って少し落ち着き、そういえばこの「おりん」はどこから来たのだろうと伝票を見たら、発送元には「岩手県上閉伊郡大槌町」と書かれていました。

「被害が最も大きな場所としてテレビで中継をしていた、まさにその町でした。電話はもちろんつながらないし、行方不明者を探すwebページでもその方の名前は見つかりません。どうしよう、どうしようと、そればかり思って……」

「おりん」を送ってくれた大槌町の仏具店は、津波の被害が最も甚大だった地域にありました。そして仏具を商っていたそのお宅では、電話で永井さんの話を丁寧に聞いてくれた女性を含む5人のご家族が亡くなったと、後日わかりました。

「あの方が送ってくださった『おりん』は二つです。手紙を添えてくださって。その手紙も、伝票も、大事に取ってあります」

この二つの「おりん」が、パーカッショニスト・永井朋生の柱になりました。

「『おりん』が本当にきれいな音だったので、きっとこれを使えばソロみたいなことができると、最初に鳴らしてみたときに思ったんでしょうね。これを中心に、他のシンギングボウル(おりんと同種のチベット発祥の楽器)を探したり、いろんな楽器を自作したりして、今の僕の形ができました。この子にすごく頼ってる部分は確かにありますね。海外でも国内でも、演奏でこの子を持っていかないことがないんですよ」

「この子」とは、もちろん「おりん」のことです。大きな物語とともに「おりん」が出現した瞬間、永井さんは住み慣れたドラムの世界から、パーカッションのソロ演奏活動という広い世界に、自然に一歩を踏み出していたのです。それ以来、永井さんの活動は大きく拡大しています。ブラジル、モロッコ、フランス、アイスランドと、海外で演奏する機会も増えました。何かが堰を切ったようにあふれ出したのです。




永井さんが「おりん」とさまざまな打楽器を奏でるとき、美術のインスタレーションにも通じる一つの空間が出現します。ジャズやロックのドラムのカッコよさにも、ラテンパーカッションの迫力にも負けない、それは永井さんだけに可能な、完成された「作品」といえるものです。この作品の根底にある概念は「響き」です。

「響きは僕にとって一つのキーワードです。僕はどんな音楽のライブに行っても、もちろん曲やメロディも大好きですが、その人の出す響きというものがすごく残るんです。響きには、その人のよさが出ます。だから僕は空間を作るというか、響きを生み出すということにとても興味があるんです」

「僕はすべての楽器が西洋のドレミにチューニングされている必要はないとも思っています。もちろんチューニングされていればきれいにサウンドはしますが、僕はそうではないものの世界を探したいんです。素材をナチュラルな響きのまま使いたいという思いが自分の中にはありますね」

難解にも思えますが、実は西洋音楽が導入される前の日本には、西洋音楽のドレミには収まらないさまざまな音階や響きが存在していました。雅楽や能、あるいは僧侶たちの声明などを思い起こせば、音楽というものが本来持っている可能性の大きさがイメージできるでしょう。また、素材の響きという点は、永井さんが美術の人でもあることに関係しています。金属をはじめとするさまざまな素材を加工する試みの中で、永井さんは素材の持つ自然な響きの美しさを見出しているのです。

「たとえば今、紀伊半島の鉄道駅のホームで流れる音楽を作曲する仕事をしていて、そこでは備長炭のナチュラルなピッチの響きを活かそうと思っています。備長炭を木琴のように並べて、鉄道の各駅の位置をオタマジャクシに見立てて譜面を作り、作曲する試みです」

これは「地域のための音楽を、その地域にある素材の音を使って作曲する」という考え方で、2014年11月1日(土)にOVEで開かれる永井さんのコンサートも「人と街」をテーマにしており、その実際を耳にすることができます。

「以前にOVEで演奏したときは、自転車の後輪が空回りする『シャーッ』という音も取り入れました。あれも本当にきれいな響きですよね。まあ、僕のやっていることは変わっているといえば変わっていますが、一歩ずつ自分のルーツみたいなものに近づいていこうとしている、その過程なんだと思います」

さまざまな試みの中心には、あの「おりん」があります。「おりん」を送ってくれた女性のご遺族と永井さんは、頻繁にやり取りをする間柄になっています。これからも「おりん」は永井さんの最重要楽器として活躍していくことでしょう。また、そこから四方八方に広がっていく打楽器の可能性の連鎖からも目(と耳)を離すことができません。ぜひOVEで、永井さんが創り出す音の空間を体感してみてください。


近影

ながい・ともお
東京都在住のパーカッショニスト。
1975年/静岡県に生まれる。2002年/東京芸術大学修士課程修了。2003年/「Flight of Idea」参加。アルバム『a Day』発表。2004年/映画『Float』サウンドトラック制作。2005年/「Flight of Idea」アルバム『TALK HARD』発表。ピアノトリオ「EPOCUS」インドネシアツアー。2006年/映画『風紋の歌声』サウンドトラック制作・高尾にスタジオ開設。2009年/「ESPIRA」日本ツアー。いわきブラウロート日比淳史氏個展に楽曲提供。たにかわまいこ『秋缶』に音楽で参加。2010年/サテライツアートラボ「metalication」展に楽曲提供。gallery POUSSE「イス・椅子 展」に楽曲とオリジナル楽器を出品。沖縄聖バプテスト教会 楽器制作。「SABOTEN展」楽曲提供・作品出展・ソロライブ。「越後妻有トリエンナーレ」出演。「Deco Galeria」 (サンパウロ)出品。「ESPIRA」日本ツアー。「sto-mocs」日本ツアー。2011年/舞台「月が一番近づいた夜」音楽担当。「ESPIRA」日本ツアー。ヒグマ春夫氏のパラダイムシフト。ブラジルサンパウロ ツアー。ブラジルサンパウロ「テアトルYUBA」へ楽曲提供。2012年/フランスツアー。ART田辺2012。「旅するおりん」発表。「モロッコ旅するおりんプロジェクト」。2013年/フランス「Full bloom」参加。フランスツアー、ソロアルバム『514 Pictures』をフランスから発表。ART田辺2013。OVE南青山にてソロコンサート。2014年/アイスランドツアー。フランスツアー。 待乳山ソロコンサート。オペラシティ 近江楽堂 ソロコンサート。

Photo:GOTO AKI

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