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ジュシザリベ・ア・パリ! パリに到着しました

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© Paris Tourist Office - Photographer : Amélie Dupont


パリ・シャンゼリゼでツール・ド・フランスを見ることはおすすめしない。だってものすごい人だかりで、数時間前からフェンス際を確保しないとマイヨジョーヌがどこを走っているかもわからないからだ。それにシャンゼリゼは、それまでの22日間とは雰囲気が違う。すでに大勢は判明していて、超満員の大観衆を喜ばせるスペクタクルなライディングショーだ。たまたまパリを訪れていた観光客が、タダで楽しめるサーカスに出くわしたようなノリだ。

ゴールラインの手前400mほど、コンコルド広場の北西の角に選手の家族が到着を待ちこがれている。みんな祭りが最高潮のフィナーレを迎える瞬間ばかりに気を取られながら。220年前、ルイ16世やマリー・アントワネットの首が転がっていた場所であることも、まったくお構いなしにである。

チームカーはことあるごとにコンコルド広場に停車し、後部座席に乗るスポンサーを入れ替えて大観衆で埋め尽くされたシャンゼリゼを1周する。もうすでにチームマネージャーの頭は来季のスポンサー契約のことでいっぱいで、すでに営業を開始しているのである。


パリに到着する朝は最後のフランスの田園風景を目に焼き付けておいた


自転車専門誌のサイクルスポーツで9年間、ツール・ド・フランス別冊付録の総編集を担当し、巣立った後の1997年から22年連続での全日程を取材したことになる。もちろん経費も体力もそれは相当大変なのだが、ボクが大会の全日程を回ることにこだわるのは理由がある。区間1勝はできなかったが、はいつくばってもパリまで走り抜きたい。そんな選手の気持ちを共有したいからである。

選手の10分の1程度の労力だが、全日程を取材するのもちょっとだけ大変である。肉体と精神力の限界まで原稿執筆に没頭することもある。役割こそ違えど、開幕地からフランス一周の旅をともにし、パリにゴールすることで選手の気持ちもっと理解できるのではないか。プロチームのアシスト役は成績など関係ないので、役目が終われば途中でレースを捨ててしまうというエピソードもプロらしい。でも世界最高峰のステージレースは、もちろん優勝すればスゴいのだけどパリに完走するのも勲章なのではないだろうか。


ゲラント・トーマスがマイヨジョーヌ © ASO


2018年は優勝争いが思わぬ展開となり、だれもが予想していなかった結末になった。それでもツール・ド・フランスにふさわしい好レースとなったと思う。そんなフランス一周レースを選手とともに完走できたことが本当にうれしい。毎年のことながらもう疲労は限界まで達し、ヘロヘロでゴールしたが、来年もこの場で頑張れるように11カ月間かけて準備したい。(山口和幸)

カーゴパンツだった女子スタッフがスカートに…それがパリ

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ピレネーの田舎にあるホテルは以前泊まったことがあって、経営者も覚えてくれていた


ディレクション・ア・パリ。いざパリへ。なんてしみじみとする言葉なんだろう。進行方向に「パリ」の標識が見えると、それは本当に感慨深くて目頭が熱くなってしまう。クルマに乗って追いかけるボクでさえ、ゴールはこの先にあるんだと感慨にふけることができるのだから、選手はどんな気持ちなんだろう?

ところが2018年は最終日前日になってもパリの標識は確認できなかった。第105回ツール・ド・フランスはフランス南西部、パリまで800km離れたエリアで最終日前日を迎えた。すぐそこの国境を越えればスペインである。スペインチームは多くのスタッフが最終日のパリには行かず、ここで帰路に着くはずだ。


ツール・ド・フランスはまだまだ終わらない


日本人的な感覚では「ここまで頑張ったのにパリに行かないの!」と残念がるだろうが、すでに戦いは終わっていて、往復1600kmの移動がそれに見合う成果がないのである。彼らはプロ。無駄なオカネはかけないし、次週から別のレースへの帯同を命じられるかも知れない。

最終日前日は総合成績をほぼ確定させる個人タイムトライアルが行われ、マイヨジョーヌのゲラント・トーマス(英国、スカイ)が、総合2位、この種目の世界チャンピオンであるサンウェブのトム・デュムラン(オランダ)からわずか14秒遅れのタイムでゴール。初の総合優勝を確実にした。

最終日前日のレースが終われば選手もチームスタッフもその年のツール・ド・フランスは「セ・フィニ(終わり)」だ。ゴール地点のサルドプレスで総合優勝者が最後の記者会見を行うのがその証拠。まだ1日あるのだが、これは恒例だ。取材記者もそれをもとに総括原稿に取りかかる。選手はその夜、もう戦いは終わったものとしてビールやワインを飲むし、脂肪分の多いカルボナーラやハンバーグも口にするという。


タイム差を伝えるバイクに乗るのは女性です


こうして選手は最終日のお昼過ぎにちょっと二日酔い加減で近くの空港に送迎され、一気にパリへ。しかしながら機材車両を運転するチームスタッフ(スペインチーム除く)やその他の関係者は800kmの陸路移動である。チームスタッフは前夜に移動をしてパリへの途中で一泊することも多い。つまりその日はもうマッサージもないのである。

そして最終日のジャーナリストはみんなシャンゼリゼのサーキットを楽しむひまもなく原稿書きに追われる。パリ市内のオフィスで作業する人も多いのでサルドプレスの記者はもはやまばらだ。

さあ、気を取り直してハンドルを握ろう。前日までカーゴパンツでコミュニケを配布していた女のコがスカート姿になった。ボクたちが最終到達地とするパリはそんな存在なのである。(山口和幸)

ツール・ド・フランスの底力をついに見た!

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ルルドのカトリック大聖堂前にチームバスが並ぶ


アルプスが陽とすれば、ピレネーは陰。ピレネー山麓にあるルルドには不治の病を治す奇跡の泉がわき出るという。聖母マリアを見たというベルナデットという少女が、岩の割れ目からわき出る泉を発見。これが治癒的効果を発揮し、以来ルルドは神にすがる思いの人たちが訪れるようになった。かつてフランス人の先生が、「微量の放射性物質を含んでいるので、場合によっては治ることもあるのよ」と言っていたことを思い出す。

周囲には温泉地が幾多もあるから、やはり地底から不思議なパワーが立ちのぼっているのだろうか。世界中から敬虔なカトリックがやってくるから、それぞれの国の人たちがホテルや飲食店を営むようになった。参道の土産物屋には病床の家族に届けるためのボトルが売られる。あるいは余命幾ばくもない人がベッドのまま運び込まれる。そのシーンは人生観が変わるほどの衝撃だ。健康でいられることに感謝しなければと強く思った。


イタリア選手が聖なる泉を訪れた


ツール・ド・フランス取材陣にとってこのルルドは宿泊施設に困らない貴重な町である。この町ならコインランドリーやスーパーマーケット、おいしいレストランの場所も知り尽くしている。ボク自身、パリは毎年1泊しかしないが、ルルドは2泊から3泊はする。別にこのカトリックの聖地が好きなのではなく、ピレネー取材で動きやすいからだ。

2018年の第19ステージはこの聖なるカトリック教会の参道にチームバスが問答無用に置かれた。教会の前庭は関係者のビラージュだ。毎晩のミサでは世界中から集まった人たちがロウソクを掲げて「アベマリア」を唱えながら行進するところだ。ツール・ド・フランスはなんてことをするんだと思ったが、これがその底力だ。


ゴールの町はおそろいのウエアで大歓迎


スタートまで30分と迫った時間にもかかわらず、イタリア選手は奇跡の泉がわき出たところをわざわざ訪れていた。そこでちょっと思わぬ発見をしてしまった。泉を汲むところが変わっているのだ! これまでは少女ベルナデットが不治の病を治す水を発見した岩の割れ目の近く、公園の水飲み蛇口が50個くらいあったけど、全部取り外されていて、別のところに水汲み場が設置されている。いいのか、これで。フツーの水道水じゃないの?

町は相変わらずである。ここの角を曲がるとクスクス屋がある…。あれ? ないぞ。この先にコインランドリーが。閉店してるぞ。気がつけば空き家となった商店が多い。信仰心にすがって栄えた町は進化を忘れ、時代に取り残されつつある。

ツール・ド・フランスはこの日最後の山岳ステージをクリア。パリまであと少し。(山口和幸)

ツール・ド・フランスが好きな町…選手はポーで4連泊

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ポーの町並みに熱い日差しが降り注ぐ


パリに続いてこの大会が訪れる回数が多いのがポー。パリはおそらくその郊外発着を含めて105回だが、ポーは今回で70回目だという。冬でも温暖で、避暑地の反対の避寒地として知られる。ピレネーのツールマレー峠やオービスク峠へのアクセスがいいので、選手や関係者はこの町に連泊することが多い。近隣にゴールしたときでも宿泊地はポーだ。貴重な休息日を過ごすこともしばしばある。今回は第18ステージ終了後にポーとその近郊のホテルに入り、最終日の午前までなんと4連泊する。

自治体が裕福で、大会協力金を惜しまないことがポーを拠点とする理由だ。サルドプレスは中心地からほど近い公園内の劇場。むき出しの板張りホールにテーブルが並べられ、ボクたちがパソコンを打つシゴト場として提供される。もう20回以上この劇場に来ているのでGPSに頼らなくてもアクセスできるが、ここで観劇したことは幸か不幸か1回もない。そしてこの公園のまわりの道路は縁石が白と赤に塗装されているのだが、フォーミュラカーの市街地サーキットにもなるようだ。


ゴールとサルドプレスはかなり離れているのでインタビューは遠隔操作だ


ピレネーの山岳ステージの拠点となるポー。ツール・ド・フランスの歴史の中で伝説的なエピソードが多いのもこのピレネーだ。フロントフォークを折った選手が自転車を担いで峠を下り、村の鍛冶屋に飛び込んで修理したとか。ベルナール・イノーとグレッグ・レモンの確執が表面化したのもここ。バルセロナ五輪の金メダリストがクラッシュして命を落としたのもこのピレネーである。

バカンス気分あふれる涼しげなアルプスとはまた違う。ベテランカメラマンは山岳シーンの写真を、緑色の濃さから植生の違いを突きとめてアルプスかピレネーかを特定するという。ツール・ド・フランスが初めてピレネーを越えた1909年、人食い熊が選手たちに襲いかかるんじゃないかと危惧されたような山奥である。現在でも普段はヒツジの鳴き声や牛の鈴が風に乗って聞こえてくるだけの美しい原野ばかりがひろがる。どちらかというと霊気を感じる。ゲルマニウムなどの健康効果が期待される奇跡の泉があり、地熱で温められた温泉もわく。


チームは4連泊。市街地サーキットの縁石が見える


4連泊のチームだが、レースに帯同する班とホテルに残る班と二手に分かれた。スカイやアスタナのホテルが近くにあったので見にいったら、ゴール後に選手が乗るバスを出していない。ホテルまで乗って帰れってことだ。メカニックはホテルで最終日前日のタイムトライアルバイクの調整中だった。

大会もこの日が終わってあと3日。30年ほど取材していると最近はあっという間に大会終盤になってしまうことに気づく。以前は日本語を話す相手もいなく、とてもさみしくて早く日本に帰りたかったものだ。近年はSNSの普及で日本の自転車好きの人たちと交流できたりするので、単身で全日程を回っていても1人じゃないという頼もしさがある。

ツール・ド・フランスが終わると欧州の短い夏も終わりそうだ。開幕時から顔を合わせる大会スタッフもちょっと名残惜しそう。あともう少し、頑張ればパリに着くかな。と、思って公式プログラムを見直したら、最終日にパリまでの800km陸路移動があるし。(山口和幸)

異例のショートステージに異様な盛り上がり

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100年前は人食い熊が人間を襲うと言われていたピレネーである


ミディピレネー地方は地図で言うとピレネー山脈の北東部。バニェールドリュションのような大きな町もあることはある。四方を2000m級の山岳に囲まれた静かな町だが、ペイルスールドなどツール・ド・フランスの伝統的な峠の直下にあって、105回の歴史の中に何度もその名前が登場する。湯治客が長期滞在するのだが、物価がとても安く、豪華なホテルも1泊1万円ほど。最高級レストランのフルコースで3000円だ。

第17ステージはこのバニェールドリュションをスタートし、サンラリースランまでの距離65kmという異例のショートステージだった。サンラリースランは住民900人という小集落。それでもスキー場のプラダデなどのベースとなるので、観光地としてにぎわっている。

このあたり、気をつけないとあまりにも文明と遮断されているため、時代錯誤する。古い石造りの壁に風雪にさらされた窓と鎧戸。それでも部屋の中はきちんと改装され、居心地よく生活できるように工夫されている。


ゴールまではゴンドラで上っていく


サルドプレスがゴール地点とはまったく違うところに設置されるのもピレネーではよくあることだ。かつてはゴール手前23km地点にあるスケートリンクだった。これまでもアルプスなどでスケートリンクが記者席だったことはあるが、この日はカーペットを踏みしめるとサクサクと音がする。なんと氷の上だ! どおりでパソコンの金属部が結露するわけだ。おまけに場内に張り巡らしたテントの重しはカーリングのストーンだし。

スキーゲレンデやその駐車場にシャピトーと呼ばれる大型のテントを設営して、それをサルドプレスにすることもある。フロアは板張りなのだが、これは気をつけないといけない。板張りの床は大柄な欧州記者が歩くたびにバタつき、パソコンが揺れる。この振動でボクのパソコンが壊れたことがあるので、ゾッとする。あのときは翌日に日本からやってくる仲間に「なんでもいいから買ってきて」と頼んだのだ。


サルドプレスはおかしなスタートシーンに失笑も


異例のショートステージはF1グランプリなみに、選手を総合成績順にスタートグリッドに並ばせるという異様なスタート。これにはサンラリースランのサルドプレスでモニターを見ていた記者連中は大盛り上がり! そして選手をスタートで降ろしてからゴールに先回りするというチームバスも、迂回路なんてないのだからゴールに到着するの無理でしょという状況。ということは、選手はゴールしたら15km下山してバスを探すんだと思う。そしてキャラバン隊はとっくに到着しているはずなのに1台も現れていない。

ピレネーの中でもめったに足を踏み入れない秘境。ツール・ド・フランスはちょっと異例の1日を過ごしている。(山口和幸)

だってツール・ド・フランスなんだもん!

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天然の洞窟サウナ、バポラリウム ©OT Luchon


ピレネーの最も奥深いところに位置するバニェールドリュションは小さな町だ。チームが泊まれるような大きめのホテルがないことから、ゴール後はディレクトエネルジー以外の21チームが国境のポルティヨン峠を越えてスペインに移動した。ディレクトエネルジーだってゴールの市街地でなく、とんでもない山奥に向かっていった。

でもピレネー南麓側の閑静なリゾート地に点々として宿泊するのも悪くはない。スペインは物価も安いので宿も夕食も思いのほか安価に済ませることができる。

ツール・ド・フランスは選手と監督にとって勝った負けたのコンペティションなのだが、たいていのチームスタッフや関係者にとっては日常的な仕事の現場だ。せっかくだから各地の魅力や味覚を楽しみながら旅気分を満喫したい、と思うのは当然だ。ツラいけれど時に楽しい3週間である。1日くらいは食事とワインが安価でおいしいスペインに足を伸ばしてみたくなるものだ。


トゥールーズからピレネー山脈にかけてはフランスでも一番見事なひまわり畑が出現する


ボク自身は当コラムの連載にあたって、「あえて道草の多い取材を心がけたい」と掲げた。バニェールドリュションもレースを追いながら楽しませてもらった。ある年のバニェールドリュションにゴールするステージは特異な動きをするコースだった。前日のゴール地点ともなったこの町からスタートするのだが、コースはU字を描くかのように遠回りして、見上げれば見えるほどの近くのスキーリゾートにゴールする。そのためサルドプレス(プレスセンター)は前日と同じだった。

ボクは早めにスペインの宿から同地に戻っていて、町中にあるこの日のホテルの中庭にクルマを駐めて、あとは徒歩で動いた。サルドプレスには地元観光局の人がいるので、バニェールドリュションの観光の目玉であるバポラリウム(洞窟サウナ)の場所を聞いた。そうしたら、この日のスタート地点の目の前にあった。


この日宿泊する町はピザ屋しか食べるところがない


洞窟サウナの営業時間は午後3時から19時半だと事前に確認していた。さすがに選手が必死で山岳を上っているのにサウナで汗かいちゃっても非礼だなと思ったので、無事にゴールしたのを確認して、海パンと手ぬぐいを手にしてウキウキしながらバポラリウムへ。

で、行ってきた。入場すると硫黄のにおい。なんかテルマエロマエのフランス版という感じだ。ガードマンのお兄さんが登場。
「きょう、おしまいなんだけど」
「えっ、19時半じゃないの」
「だってツール・ド・フランスだから…」(山口和幸)

ミヨーを見よー

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この日の宿にいたネコちゃん。ミヨーとは関係ありません


世界同時WEB発表される2018ツール・ド・フランスのコースプレゼンテーションを、2017年10月17日に東京・青山のライフクリエーションスペースOVEで開催し、その後の懇親会を含めて多くのツール・ド・フランスファンにお集まりいただいた。そのとき、ボクとともにコース発表を見ながら解説やトークショーに登場してくれたのが、フランス観光開発機構在日代表のフレデリック・マゼンクさんだ。

関西のお笑い芸人のように愉快な日本語トークがはじけるマゼンクさんだが、徐々に明らかになっていく映像を会場のみなさんと見ているうち、第15ステージになると「あ! ここ、ボクの家があるとこ」とびっくりの表情。ミヨーはマゼンクさんの生まれ故郷だったのだ。


ミヨー橋。実際に走ってみると路肩が広くて怖さはなかった


マゼンクさんはフランス政府観光局が日本に派遣した人で、政府や自治体・観光協会とも親密な関係にある。毎年のツール・ド・フランスのコースは水面下で設計されるのだが、少なくとも各都市の関係者には情報が漏れているはずだと思ったのだが、マゼンクさんはまったく知らなかったという。それだけツール・ド・フランスのコースはシークレットなのである。

ミヨーには2004年末に開通したミヨー高架橋がある。全長2460m、主塔の高さは343mにも達する高速道路専用の斜張橋だ。タルン川渓谷に架かる主塔が世界一高い橋として知られていて、朝もやが谷間にかかったときはまるで雲の上を走っていくかのような見事な景観が味わえる。

この橋がなかった時代は両岸のジグザグ道を谷間に降りたり上ったりする必要があったが、ミヨー橋の完成でA75高速(別名地中海高速)はパリと地中海、さらにはスペインを結ぶ最も短距離のルートになった。21世紀に入ってから作られた最初の大々的な建築物として、世界中から訪れる好奇心いっぱいの観光客を魅了しているという。


こんなきれいな町はフランスにゴマンとある


ゴールは「カルカッソンヌを見ずして死ぬな」と称されるヨーロッパ最大の城塞都市。1997年にその城塞(シテ)が世界遺産に登録されている。このあたりはラングドックと呼ばれ、ジャラベール兄弟の出身地マザメもすぐ近く。なまりのキツいフランス語はなかなか聞き取れない。

このラングドック地方は広大な黄色のひまわり畑が広がる。向日葵(ひまわり)はフランス語で「トゥルヌオソル」。太陽に向くという意味で、これほど真夏のフランスにふさわしいものはない。ところが、実際に息を飲むほどの光景にはなかなか出くわさない。やっぱりカメラマンはうまく撮るのよ。彼らにいわせれば、選手と花の向きが合わなかったり、生育の盛りが過ぎていたりと一苦労なのだが、ベストなロケーションを血眼になって探して、草にまみれて選手たちの到来を待つ。
「もっといいとこがこの先にあるだろう」なんて欲を見せると二度となかったり。コースは逆走できないので、その年はもうアウト。思いのほか大変なんだよね。(山口和幸)

大型キャラバン隊もチームバスも上れないマンドのジャラベール坂

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マンドのゴールは飛行場の滑走路


マンドは中央山塊の激坂だ。ラスト3.5kmから2kmにわたって勾配値10.1%以上の上りが続く。残り2kmはほぼ平たん。最後の1kmは山の頂上にあるローカル飛行場の滑走路。その上にゴール地点を設営してしまったのだから、この日は終日飛行機の離発着はできない。

キャラバン隊も装飾を施したデカくて重い車両はマンドの激坂を上ることができない。隊の精鋭だけがマンドに集まった観客のためにゴールまでを行進する。それだけ厳しい上り坂だ。ボクも大観衆の中をかき分けるようにクルマを進めていて、残り4km地点に下界の教会や集落がきれいに見下ろせる場所があったのだが、ここで停車したら大観衆の前で坂道発進かい!と不安が頭を過ぎったので止まらずにゴールへ。何度も言うけどそれほどまでに激坂なのだ。


前夜はスーパーのフードコートで安価にお食事


ある年はマンドにゴールするステージで、チームバスがスタート地点で選手を降ろしたのち、マンドまで460kmの迂回コースを走らざるを得なかった。中央山塊は岩山ばかりで道路がそれほど多くない。バスは案の定ゴールに間に合わず、マンドの激坂のふもとに停車。選手たちはつまりゴールしたら逆走してバスに戻るハメになった。

早々にゴールした選手たちはすぐにUターンして下山し始めた。後続の選手たちが必死に上っているのに、である。最後尾がゴールしないのに表彰が始まることもある。ツール・ド・フランスはとても残酷だ。


夜通しで働く設営班は以前木陰で寝ていたが、今は寝台バスがある


マンドがゴールになったのは1995年が最初。以来2005、2010、2015年と西暦で5の倍数の年にゴール地点として採用されていた。5回目となる2018年はその法則があてはまらなくなってしまったので、ボクはちょっと残念だな。

1995年は7月14日、いわゆるフランス革命記念日にオンセ時代のローラン・ジャラベールが独走勝利した。その快挙を祝して、それ以来マンドの激坂は「ローラン・ジャラベール坂」と命名された。フランス勢にとっては勝たなければいけない伝説の地である。

地元フランス勢が最後に総合優勝したのは1985年のベルナール・イノー。すでに33年前のできごとで、つまり33歳以下のフランス人は自国選手が世界最高峰の自転車レースで総合優勝したところを見ていない。

この日もアスタナのオマール・フライレ(スペイン)が、残り2kmで逃げ続けていたトレック・セガフレードのジャスパー・ストゥイベン(ベルギー)を逆転して初優勝。総合成績では首位のゲラント・トーマスと総合2位クリストファー・フルームの英国・スカイ勢、同3位トム・デュムラン(オランダ、サンウェブ)が同タイムでゴールした。

フランス勢、がんばれ!(山口和幸)

世界で一番かわいいと思った女のコの記憶

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ラルプデュエズのアプローチにあるブールドワザン © Laurent Salino


仕事をしながらフランスの各地を回るのは本当に楽しい。この日はアルプスのふもとからオーベルニュ・ローヌアルプ地方へ。南仏プロバンスももうすぐのところまで南下した。ワインの原料となるブドウはもとより、メロンなどの果実類も収穫される。

ゴールの町バランスを北から南に流れるローヌ川はそのまま下流をたどると地中海に行き着く。「太陽への道」という愛称を持つA7高速はフランス中南部のあるリヨンと地中海に面したマルセイユを結ぶオートルート(自動車専用道)。パリとリヨンをつなぐA6高速と合わせて物流の大動脈。日本で言ったらいわば東名高速だ。このあたりはガソリン単価も安いのでとてもありがたい。

7月14日のフランス革命記念日を合図にフランスはバカンスシーズンとなるが、A7高速は地中海に向かうクルマで大渋滞となる。その日が週末だったり、さらに近くにツール・ド・フランスが走ったりするときはもう数時間で1mmも動かないなんてことも。1日分の食料と水、エアコンが稼働できるガソリンがたっぷりとないときは、死の恐怖さえ覚えた経験もある。


アペリティフでビールを飲みながら、サラダとメイン、安価な水差し入りワインを注文するのが基本かな


こんがりと日焼けすることをフランス人は「ブロンゼ=ブロンズ色になる」といって喜んでいた。特にパリっ子たちは優雅な地中海でバカンスを過ごしたという証明になるので、かつては争うように日焼けをした。ところが最近の紫外線の強さに警戒感を持ったのか、ブロンゼは次第に敬遠されるようになった。ツール・ド・フランスに出場する選手たちも日焼け止めクリームをしっかりと塗る時代である。まあ、こちらのほうは疲労を低減させるという意味もあるのだが。

高速道路と平行して旧街道も南北に延びる。まだネット予約なんてなかった20年前、飛び込みで確保できたのは街道筋の安ホテル。周囲に食べるところはなにもなく、シャワーのお湯も満足に出ず、あまりの孤独感に泣きそうになった。こういうホテルは次々に廃業していき、今では高速インター近くに快適ホテルが林立する。フランスで1万人が死んだという2003年の猛暑をきっかけにエアコンも完備されてきた。


選手到着までまだ5時間以上ありますが、ゴールのバランスは大会ボランティアさんが配置についています


どこの町だったか覚えていないのだが、クルマでスラム街にまぎれ込んでしまった経験がある。汚れた服装をした子供たちがクルマのドア越しにボクの顔をうかがっているのがわかる。道に迷った東洋人が不安げに運転しているのはバレバレだ。
「どこに行くのさ?」
小学校高学年くらいの女のコがクルマのドアに片ヒジをついてきた。
「あ、はい。A7高速の入口かな、なんて…」
「そうなの。ムッシュー、着いて来なよ!」と近くにいた男のコの原付バイクをひったくってボクのクルマを先導してくれた。A7高速入口で進行方向を指さす彼女に、お礼としていくら渡すべきかなとマゴマゴしていたら、とびっきりのウインクを決めて風のように走り去ってしまった。世界で一番かわいいと思った。カーナビなんてなかった時代である。

変わらないのは悠々と流れるローヌ川。その豊富な水量を冷却水として使う原子力発電所。巨大な建造物から水蒸気がもくもくと吹き出している。20年前と変わらない光景だ。(山口和幸)

ラルプデュエズに行ったらタイム計測して記録証をもらおう

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聖地だけにキャラバン隊もいつもよりきちんと隊列を組んで走る


ツール・ド・フランス最高の舞台として知られるアルプスのスキーリゾート、ラルプデュエズ。距離13.8kmの上り坂に世界中から熱心なファンが集まる。ふもとのブールドワザンにある最後のロンポワン(環状交差点)でラルプデュエズという看板が指す方向に進路を取ると、しばらくして幾多の伝説を生んだあの上り坂が始まる。

上り始めて2kmの激坂が始まり、ここからまさに「ヘアピン」と呼ぶにふさわしいコーナーがラルプデュエズ村の入り口まで21も出現する。数字をカウントダウンしていくのだが、この「第21コーナー」までの長い直線の2kmが非常に厳しいので、サイクリストの多くがここで足を着いているところを見たことがある。


自己記録を提示するとディプロマを発行してくれる


ベルナール・イノーやローラン・フィニョンがマイヨジョーヌを獲得していた1980年代は黒山の人だかりだった。近年は熱狂的に応援できるフランス人が少ないこと、フランス人の生活様式にその他の楽しいことがたくさんできたこと、前日から始まる厳しい交通規制、SNSやネット配信などの発達があって現地で観戦しなくてもいいことなどがあって、観客数は少なくなったと感じている。

でもやっぱりラルプデュエズは外せない。それを一番感じているのは選手たちかも知れない。だから第12ステージもアタックの連続だ。

ラスト6km地点にはウェズ村のゴシック様式の美しい教会がそびえる。このあたりは例年ものすごい人だかりで、コーナーごとにオランダ人、ドイツ人、デンマーク人などが陣取り、一触即発の雰囲気だ。


悪魔おじさん。今年も「さいたま」を熱烈アピールしてくれていた


もしラルプデュエズに自転車で上る機会があったら、GPSデバイスでもサイクルコンピュータでも、手持ちのストップウォッチでもいいので、ふもとからゴールまで自己計測して見ることをオススメ。ラルプデュエズ村に入ってコースが一瞬地下道になるところにツーリストインフォメーションがあって、計測した数字を見せるとディプロマ(記録証)を作ってくれる。

かつて現地を訪れたときは計測開始地点に「デパール=スタート」という横断幕があったのだが、この日は安全のため外したのか見あたらず。見あたらなかったらロンポワンを過ぎて徐々に左に曲がっていき、上りが始まったところでスタートスイッチをオン。ツール・ド・フランスがゴールを設営する場所に「アリベ=ゴール」の看板があるので、そこまでがんばること。

ちなみに最速タイムは1997年にマルコ・パンターニが記録した37分35秒。というか、パンターニがトップ3の記録をすべて持っている。ボクはこの日、半クラッチで1速や2速をいったりきたりしながら45分で上りました。ディプロマ、発行してくれますかね。自転車選手って信じられないくらいに速いんです。(山口和幸)

アルプスでここぞとばかりにゼイタクするのだ!

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ツール・ド・フランスの通らないアラビス峠にもサイクリストが


ツール・ド・フランスを追いかける旅で一番いいのは、毎年アルプスを訪問することだ。わずか1日しか滞在できないこともあるが、平均すると2日、休息日などが設定されると3日ほどとどまることができる。涼冷な空気に包まれて、ひとときを過ごすのが最高のぜいたくだと感じている。

アルプスに宿を取るときは、ここぞとばかり奮発して静かで心地よいホテルを予約することもある。木陰のテーブルでパソコンをたたいていると、なぜかいい原稿が書ける(気がする)。第11ステージのスタート地点となったアルベールビルは1992年に冬季五輪を開催した都市で、右回りのツール・ド・フランスではアルプスの玄関口となる。ホテルも多くて宿泊しやすいので何度も滞在している。


アルベールビルの市庁舎もツール・ド・フランスを大歓迎


あるときのホテルは冬季五輪時に日本のメディアが宿泊したらしく、マダムが雑記帳を見せてくれた。フランスやイタリアでは「金の本」と言う意味のリブルドールというものがある。これは家系図に似たもので、その家庭や一族の出来事などを記すための大切な書き込み帳だ。昔は金箔でできたページを使っていたのでこの名前があって、このホテルのものも三方の束に金が引かれていた。ホコリがつかないからだ。促されたのでボクも最新ページに一筆。こういうときこそ縦書きしかない。

ツール・ド・フランスの運営関係者やチームが泊まるのはスキー場などのリゾートホテルになることが多い。クラブメッド(地中海クラブ)が運営する滞在型宿泊施設もある。眼下を見下ろせば、緑色の斜面に山小屋ロッジが点在する。まさにバカンス気分だ。

一方でボクが泊まるようなアルベールビルのホテルは、大規模ショッピングエリアに隣接したチェーン系ホテルだったりする。夜はオープンテラスのある地元レストランに食べに行くこともある。このあたりのサボワ地方は、チーズを使った料理や生ハムがおいしい。アルプス観光の中心地だ。産業としては斜面を利用した酪農業が盛んで、特産物はチーズ。そのためサボワ料理といえばフォンデュだ。フォンデュ・ブルギニョンヌは角切りにした肉を油で揚げて薬味をつけて食べる。フォンデュ・サボワイヤルドは電熱線で溶かしたチーズをパンなどの上につけて食べるもの。


ネットで見つけた1泊9000円の4つ星ホテル


それは分かっているんだけど、メニューを理解するのが難解で、ついつい無難なパスタなんかを頼むと大失敗する。とにかくフランスのパスタはゆですぎで最悪なのだ。かくして取材歴30年にして、いまだ美食は極められず。食に対する感性がないのか?

さて、第105回大会のアルプス2日目は、4年連続5度目の総合優勝をねらうクリストファー・フルームのチームメート、ゲラント・トーマスが残り300mで先行していた選手を逆転して優勝。昨年初日の個人タイムトライアルに続く2勝目を挙げた。8区間にわたって首位を守っていたBMCのグレッグ・バンアベルマートは大きく遅れ、トーマスが総合成績でもトップに立った。フルームは1分25秒遅れの総合2位に浮上。

アルプスのウインターリゾートホテルで、フルームは仲間の勝利とマイヨジョーヌをどんな感じで祝福しているんだろう?(山口和幸)

これぞリゾート! アルプスのさわやかな空気を満喫

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コロンビエール峠 © M.A. Verpaelst – Le Grand-Bornand Tourisme


ゴールの町に設営されるサルドプレス(プレスセンター)は見本市会場、アイスホッケー場などいろいろな施設が当てられる。スキー場などの場合はゲレンデに巨大なテントが設置されたりもする。ボクが一番好きなのは地元の学校がサルドプレスになったとき。校舎や体育館に入れるので掲示板を見たり部活動の様子が分かったりして、フランス学園生活の雰囲気が楽しめるからだ。

アルプス山麓にゴールするステージは、あらゆるスポーツイベントの取材でもなかなかお目にかかれないような光景が出現する。かつて、丘の上の高校にプレスセンターが仮設されたときがある。お昼は給食室に招かれた。ディズニーランドの乗り場のような迷路状の通路に他の取材関係者や運営スタッフらと並ぶ。ナイフとフォーク、受け皿は木製。水も貴重だから食後は焼却するのだと思った。


2連泊のホテルはアルプスの山小屋風


このときのアルプスのサルドプレスはリセ(高校)だったが、大学の学生食堂ならワインもある。失業者にも解放されていて、学割で利用できるらしい。この日はさすがに高校生には用意されないワインもあったので、それを受け取って空いている席に着く。開け放たれた大きな窓からアルプスの山々が視界に飛び込んでくる。のびのび育っていくんだろうなあ。

アヌシーはオートサボワ県にある宝石のように美しい町だ。「オート」というのは「高い」という意味だが、地名においては「地図上の北」となる。スイス国境にも近く、最寄りの大都市はジュネーブ。レマン湖南岸のエビアンやトノンもオートサボワの一部。また地名に「レバン」とつくところが多いが、「温泉」という意味だ。


こんな景色を見ながら夕方も朝もお食事


そしてこのあたりのグルメと言えばサボワ料理。生ハムやサラミやチーズなどの乳製品が特産物で、フォンデュがレストランの名物。チーズを溶かした鍋がテーブルにセットされるので、1人で入店すると注文できないことが多い。お味としてはかなりくどいので、ツール・ド・フランス期間中に一度食べれば十分かな。

そして第105回大会。アルプスの山岳ステージ初日は、クイックステップフロアーズのジュリアン・アラフィリップが終盤に独走を決めて初優勝。山岳賞でも一気にトップになった。総合1位のグレッグ・バンアベルマート(BMC)も積極的な走りを見せつけ、区間4位でマイヨジョーヌを守っただけでなく、1分39秒後にゴールした有力選手らとの差をさらに広げた。(山口和幸)

恐怖政治の主導者を生んだ町から北の地獄まで

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ランフェルデュノール、北の地獄 © ASO


第9ステージのスタートはアラス。アルトワの旧都だった人口4万2000人の町。ツール・ド・フランス主催者が運営するダカールラリーのかつての出発地であり、音楽フェスが開催されたりと華やかだが、自転車レースとしてはパリ〜ルーベの石畳セクションがこのアラスから始まる。2004年のツール・ド・フランスではチームタイムトライアルのゴールが世界遺産に登録されたグランプラスという石畳の広場に設定された。ランス・アームストロング率いるUSポスタルが16世紀の創建時の面影を残す、荒れた石畳が敷き詰められた広場にスペシャルバイクで跳ねるように突入してきたのが鮮烈だった。

アラスはボクにとっては特別の地だ。高2のときに週に1時間ある選択授業で、英語の文献を読むというコースを選択。そのとき与えられたのが『フランス革命の指導者たち』という文献。1789年7月14日にバスチーユ監獄を襲撃して始まったフランス革命で、恐怖政治を推進したロベスピエールらを紹介した難しい英語だったが、革命の中心的人物であるロベスピエールがこのアラスの出身なのだ。その影響で大学はフランス文学科なんて受験してしまい、勉強好きなもので5年間も在学。気がつけばツール・ド・フランスの取材記者としてもう30年以上もこの仕事に携わっていることになる。


パリ〜ルーベのゴールとして知られる旧ベロドローム


ロベスピエールはこの町の弁護士だったが、野望を胸にパリに進出した。ジロンド派の党員となったが、国会では議場の席の一番高いところに陣取っていたもので「山岳派」なんて呼ばれた。いつしか権力を手に入れ、恐怖政治を主導。ルイ16世やマリー・アントワネットを次々と粛正していったロベスピエールは、同じコンコルド広場で断頭台の露と消えるのだった。

奇しくも革命200年となる1989年7月14日。ボクは自転車雑誌「サイクルスポーツ」の編集者として記念パレードが行われていたパリを経由して、ツール・ド・フランスの現場であるマルセイユを訪れた。なんたる偶然か。奇妙な縁も感じた。

そして2018年のツール・ド・フランス第9ステージ。ゴールはルーベ。ツール・ド・フランスの姉妹レースである「パリ〜ルーベ」のゴール地点として有名だ。ただしこのワンデーレース、スタート地点はパリということなんだけど、イメージ的なもので、実際のスタートはパリからかなり離れたコンピエーニュなどの町となる。


新しい室内新ベロドロームがサルドプレスに


ワンデーレースの「パリ〜ルーベ」のゴールといえばルーベの自転車競技場だ。傾斜角がそれほどない雨ざらしのベロドロームにゴールする。ここに汗とホコリまみれになった選手たちが取り付け道路から飛び込んでくるわけだ。その横には大会のかつての主催者であるベロクラブ・ルーベの建物があり、その横に今回のサルドプレスになった室内新ベロドロームがある。

ツール・ド・フランスは規模が大きいので旧競技場にゴールするのはムリだったようで、新競技場横の道路にゴールが設営されていた。トレック・セガフレードのジョン・デゲンコルプがマイヨジョーヌを着るBMCのグレッグ・バンアベルマートを制して初優勝。バンアベルマートは2位に甘んじたものの首位を守り、栄冠のマイヨジョーヌを堅持したまま1回目の休息日を過ごすことになった。(山口和幸)

むかしアルセーヌ・ルパン、いまはマクロン大統領

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美しきバラの村として有名なジェルブロワは117.5km地点 © OT Picardie Verte


フランス北部に位置するノルマンディー地方のルーアン、ディエップ、アミアンといった地名は、幼少期にアルセーヌ・ルパンの小説を読んだ人なら目にしたことがある、あるいは記憶に残っていることもある都市名だ。

英仏海峡の海岸線は白亜の大岸壁が垂直に屹立する独特の景観があって、アルセーヌ・ルパンの小説で有名な「奇巌城」もある。もともと作者のモーリス・ルブランはルーアン出身で、美しい海岸線をサイクリングするのが趣味だったという。「奇巌城」があるエトルタの岸壁に立って、創作力をどれだけふくらませたことだろう。

第8ステージはパリの北200kmほどにあるアミアンを目指す。美しきバラの村として有名なジェルブロワを117.5km地点で通過した。戦禍により荒廃した村が美しきバラの村に生まれ変わったとして人気の村だ。


この日はフランス革命記念日


2012年の第4ステージはルーアンにゴールするコースだった。セーヌ川沿にゴール地点が設営されるのだが、河岸の名前はルーアン出身の自転車選手ジャック・アンクティルの名前が付けられている。2012年はアンクティルがツール・ド・フランスを初制覇してから55年、没後25年という節目であり、その偉業を再確認する意味で設定されたステージだった。その日はまさにアンクティルの偉業をしのぶ特別の1日だった。

この日ボクは、ツール・ド・フランスをちょっと逸脱してルパンシリーズの代表作の舞台である「奇巌城」を見に行っていた。運転するクルマのラジオでは、朝から「ツール・ド・フランスが1997年以来15年ぶりにルーアンにやってくること」、そして「ジャック・アンクティルは今もフランスの誇りであること」を飽きることなく語っていた。アンクティルゆかりの人物が次々とインタビュー出演し、「あのころはフランス人が敵なしだったね」という昔ばなしを繰り返していた。

ルパンの世界に没頭していたボクがクルマまで戻り、エンジンキーをひねって最初に聞いたラジオで、「大集団から3選手が抜け出した。フランス勢2人。そしてジャポネ。ユキヤ・アラシロ……」
ルパンの世界にひたっているヒマはなかったのだ。

この日新城はゴールまでに吸収されるものの、積極果敢な走りが評価されて敢闘賞に選出。日本勢として初めて表彰台に上ることになった。


いいなあ、ボクもやってもらおう!


第8ステージのゴール、アミアンは世界的に知られる大聖堂が有名。北フランスに多いゴシック建築の教会だ。重厚な石壁で作られ、開口部も少ないので重苦しい感じのするロマネスク様式に比べて、ゴシック様式は建築技術が進歩したその後に登場したことから、絢爛豪華なステンドグラスと鐘塔や尖塔を持ち、明るく開放的なことが特徴だ。

現在のマクロン大統領はこのアミアン出身だ。かなり年上の奥さまは学校の先生だったことで知られているが、実家はアミアン大聖堂前にあるマカロン菓子店。マカロン屋の娘がマクロン大統領の妻となったという…。

そしてアミアンにゴールした2018年の第8ステージはロットNLユンボのディラン・フルーネウェーヘン(オランダ)が前日に続いて大集団のゴール勝負を制し、今大会2勝目、大会通算3勝目を挙げた。総合成績ではマイヨジョーヌを着るBMCのグレッグ・バンアベルマート(ベルギー)が首位を守り、6日連続で黄色いマイヨジョーヌを獲得。(山口和幸)

シャルトル大聖堂で見たウィギンスとフルームの距離感

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シャルトル大聖堂 © C. Mouton – CRT Centre-Val de Loire


パリの南西約80kmのところにあるノートルダム・ド・シャルトル大聖堂は、1134年と1194年の2度にわたる火災に遭った。正面に向かって右側に焼け残ったロマネスクの尖塔、左側に再建されたゴシックの尖塔がある。このあたりは大平原なのでかなり遠くから大聖堂が見えるのが特徴。この日のコースも残り5km地点から大聖堂まで一直線。選手の到来を歓迎するかのようにそびえ立っていた。

2012年のツール・ド・フランスは後半にピレネーでの激闘を終え、最終日前日にこのシャルトルで個人タイムトライアルが行われた。フランス南西部から高速道路で一気に415km北上し、ボクが予約したシャルトル近郊のカンパニールホテルに到着すると、スカイチームと同宿する幸運を得た。

首位のブラッドリー・ウィギンスと総合2位のアシスト役クリストファー・フルームが所属するスカイにとっては凱旋の前夜だった。総合成績をほぼ確定させる最後のタイムトライアルを終えたシャルトルのサルドプレスで、ウィギンスは勝利者宣言と位置づけられる最後のインタビューを行っていた。


2012年最終日の朝。シャルトルにて © PRESSPORTS


「今夜は優勝チームとごはんを一緒に食べられるぞ」とワクワクしていたが、「今夜のレストランはスカイチームで貸しきりなんだ」とあっさり断られ、ボクは落胆しながら草原のはるか彼方に見える大聖堂の尖塔を目指して歩かなければならなかった。うらめしげにレストランの窓から彼らの様子をうかがうだけだ。

かなり遅めの彼らの夕食は午後9時50分の乾杯で始まった。お誕生日席のようなところにウィギンス。その近くに選手が座って、監督らの首脳陣は遠い席だった。ウィギンスは周囲のチームメートとあまり言葉を交わしていなかったのが不思議だった。フルームとウィギンスの席がずいぶん離れていることも確認した。今年のモビスターのナイロ・キンタナとミケル・ランダのような感じだ。

翌朝はさすがに朝食会場でスカイチームと一緒になったので、フルームにパソコンの中にあったツアー・オブ・ジャパン伊豆ステージのウイニングポーズ写真を見せてあげると、ちょっとうれしそうだった。

その後、ボクの部屋の前でカチューシャの監督がフルームを呼び止めるのだが、「ちょっと話があるので部屋に来ないか」という内緒話がつつ抜けだった。わずか10分でフルームは部屋から出て行ったので、移籍には至らないなと推測できたが、シャンゼリゼに向けて出発する前に、「来年もスカイでがんばるよ!」とさわやかな口調でボクに話してくれた。


残り5kmからシャルトル大聖堂に一直線に向かう


早朝から張り切っていたのはチームのスタッフらだ。サポートカーやチームバスのボディを彩るシンボルカラーのスカイブルーをすべて黄色に張り替えていた。スタッフが着ているTシャツも胸に黄色が入っている。背中には全スタッフの名前。最後に記念写真を撮って散会。まるで日本の修学旅行最終日みたいだった。

ホテルのリネン室に大型段ボールが隠してあったので、上からのぞき込んでみると黄色いピナレロ製のフレームが入っている。メカニックがこっそりと完成車に仕立てて、翌日のシャンゼリゼでウィギンスが乗ったヤツだろう。3箱あったのはどうやらパレードに登場したウィギンスの息子たちのピナレロ製キッズバイクのようだった。

さて2018年の第7ステージは、6年前にスカイチームのレストランから追い出されたボクがシャルトル大聖堂のある中心街を目指してトボトボ歩いていった道にゴール。ロットNLユンボのディラン・フルーネウェーヘン(オランダ)が今大会各2勝のフェルナンド・ガビリア(コロンビア、クイックステップフロアーズ)とペテル・サガン(スロバキア、ボーラ・ハンスグローエ)を制し、2017年最終日のシャンゼリゼ以来となる大会通算2勝目を挙げた。(山口和幸)

ブルターニュの激坂に未亡人との思い出がかぶる

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大会スタッフのランチ風景。仕事もするけど楽しむことも忘れない


2011年に初めてミュールドブルターニュに行ったときの記憶は鮮明に残っている。石造りの古びた家が多い小さな村々が点在する地域である。予約したホテルに行ったら、「ようこそ。キミの部屋はないよ。でも大丈夫。知り合いの民家にお願いしたから」といきなりの洗礼。まがりなりにもフランスは観光大国なので、無責任なことはしないので、まあなんとかなるとは思うけど…。

で、古い1軒屋を訪ねると未亡人の1人暮らし。その夜は語学教室の個人レッスン並みにフランス語の会話が続いて、1日の疲れをいやすどころか疲れが増した。「朝食はホテルがきちんと用意する」と言っていたけれど、未亡人も気を遣ってくれて村のパン屋に出向いて朝食を作ってくれていた。厚意をむげにすることもできず、この日は朝からお腹いっぱい。宿泊費は予約時のとおりの金額をホテルに行って支払うのだが、お世話になった未亡人にいくらか落ちると思うので、文句も言わずに支払いを済ませた。


この地方は綱引きとか鉄アレイ飛ばしとか大木担ぎなど素朴なゲームが伝統


次に訪れたのは4年後の2015年。ボーナスタイムが2008年以来の採用となり、集団スタートの第2ステージからミュールドブルターニュにゴールする第8ステージまでゴールの上位3人にそれぞれ10、6、4秒が与えられ、それが総合成績から差し引かれる。どうして前半だけボーナスタイムが設定されたかというと、平たんステージは集団ゴールとなりやすく、ボーナスタイムを獲得するのはスプリンターだと想定されるからだ。大会後半は総合優勝を争って有力選手が秒差の争いを展開する。その際にボーナスタイムの減算があると複雑になってしまう。最後は単純に力勝負で争ってもらおうというルール設計だ。

しかし第8ステージのゴールはミュールドブルターニュである。総合優勝を争う有力選手が3着までにゴールする可能性があった。この年、2年ぶり2度目の総合優勝をねらっていたフルームは前日に首位に立っていた。フルームはボーナスタイムの存在を頭の中に入れてあり、ミュールドブルターニュの上りに入ると先頭を走ってライバルをふるいにかけた。自らが3着以内に入れば理想的だが、そうならなくても総合成績の上位選手が4着以下ならタイム差を詰められない。どちらに転んでもフルームにとっては都合がいい。


砂田弓弦カメラマンがさいたまのマスコット「ヌゥ」を撮影


案の定、総合成績では大きく遅れている伏兵たちが区間勝利をねらって先行したので、フルームはそれ以上執拗に追いかけなかった。
「それほど長い上りではないのでタイム差はつかないと思っていた」フルームだが、前年の総合優勝者ニーバリがこのミュールドブルターニュで遅れたのは予想外だった。
「スタート時は調子がよかったが、最後の上りでフルームの加速に着いていこうとしたが身体が動かなかった。こういう悪い日はあるよ」とニーバリは語っていたが、結局最後までフルームを捕らえることはできず、フルームが総合優勝することになる。

そして2018年の壁上りはUAEエミレーツのダニエル・マーティン(アイルランド)がゴール手前の激坂で抜け出して優勝。2013年以来の大会通算2勝目を飾った。総合1位のマイヨジョーヌを着るBMCのグレッグ・バンアベルマート(ベルギー)は他の有力選手とともにゴールして、その座を守った。(山口和幸)

ここは「地の果て」フィニステール

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そば粉をクレープのように焼いたガレットが名物


フランス人はカンペールやブレストのあるフィニステール(Finistère)県を「地の果て」と呼ぶ。フランス語で地の果てはla fin de la terre(ラ・ファンドラテール)だが、Finiは「終わり」っていう意味で、ラテン語にさかのぼればフィニステールはズバリ「地の果て」という地名なのである。

フランス語でバッジのことをブルベ(brevet)というが、いろいろなスポーツで選手の実力レベルを認定し、実力者の証としてバッジを授与することもブルベと言われる。その自転車版が「長距離サイクリングの実力認定制度」、いわゆるブルベ・ランドヌーズだ。200km、300km、400km、600kmなどの設定された「距離」を制限時間内で完走できれば合格というもの。


OVEで大会期間限定提供中のコラボドリンク? どっちがマネした?


フランスを中心に熟成していったブルベ・ランドヌーズは、設定された距離を制限時間内に完走すれば認定書がゲットできる。レースではないので所要時間は発表されず、アルファベット順に完走者の名前が掲載されるのが特徴だ。時間制限は平均時速に換算しておよそ時速14kmから15kmほど。食事や仮眠、パンク修理やミスコースなどのトラブル処理を含めた平均時速だから、実際の走行スピードはもっと速い。

世界で一番有名なブルベは、フランスのパリ〜ブレスト〜パリだ。ブレストはパリから600kmの位置にある。これを往復するから距離は1200km。1891年に始まり、10年に1度開催されていた。そしてこのパリ〜ブレスト〜パリの存在こそが、ツール・ド・フランス誕生のきっかけだったのである。


カンペールの昔ながらのたたずまい © LAMOUREUX Alexandre


パリ〜ブレスト〜パリの主催はフランスのスポーツ新聞「ル・ベロ」だ。ライバル紙だった「ロト」は発行部数で「ル・ベロ」に水を開けられていて、起死回生の企画が必要だった。もう少し立ち入った話をすると、「ロト」は1902年まで「ロト・ベロ」という新聞名だった。「l’Auto=ロト」はオートモービル、「vélo」は自転車で、つまり自動車や自転車のレースを中心に報道するスポーツ紙だった。ところが「ベロ」の名称使用をめぐって「ル・ベロ」に法廷闘争で敗れ、改名を余儀なくされたのだ。

当時の「ロト」はパリ〜マドリッド間自動車レースで大失敗していた。エンジンがついた乗り物で長距離レースをしても、もはや人々の関心をあまり引きつけなかった。「パリ〜ブレストよりももっと壮大なスケールの挑戦を企画して成功させたい。そうだ。自転車で広大なフランスを一周してみよう」と考えて実施したのがツール・ド・フランスである。

「ロト」は紆余曲折の後に「l’Equipe=レキップ」と紙名を変更していまも存続する。その発行元は現在、ツール・ド・フランスやパリ〜ダカールなどを主催するメディアグループ「ASO社」となっている。

最後に、食いしん坊さんにとって「パリ〜ブレスト」と言えば、洋菓子が頭に浮かぶはずだが、これは車輪の形状をしたお菓子だったので、自転車レースの「パリ〜ブレスト」にちなんでつけられたのです。(山口和幸)

ブルターニュでもフランスとベルギーが火花を散らす

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英国的なバグパイプもブルターニュ半島ならでは


ツール・ド・フランスは広大な流域面積を誇るロワール川を渡っていよいよブルターニュ半島へ。第4ステージの前半は、今回の開幕地を務めたロワールアトランティック地方だが、後半はブルターニュ地方に突入する。英語で言えば「ブリテン」で、気候や生活習慣がほんのちょっと英国に似ている。敬虔なカトリックが多く、教会の形状も独特。フランスの他地域とはかなり違う生活環境にある。

このあたりは緯度が高くてブドウが生育しないので、ワインではなくリンゴを発酵させたシードルが地域の人たちの飲み物。畜産も盛んで、カマンベールをはじめとした白カビのチーズはシードルといただく。海水がしみこんだ草原で育った乳牛から取ったチーズはちょっとしょっぱい。そば粉から作るガレットも名産だ。


ゴルフ・デュ・モルビアンに浮かぶポナン諸島 © DUBOIS Xavier


歴史的には英仏海峡をはさんでにらみ合う英国と紛争に明け暮れたエリアである。大昔のフランスには英国商船なら襲ってもいいという法律があって、政府公認のこういった海賊は「コルセイユ」、民間の海賊は「ピラート」と単語を使い分けている。フランス語は自転車競技とサイクリング、競泳と水泳を言語学的に使い分けているので、興味のある人は探求してみると深みにハマると思う。そうなっても責任は持たないけどね。

ゴール地点のサルゾはモルビアン県。モルビアンとはこの地方に伝わるブルトン語で、「小さな海」という意味らしい。岬に囲まれた湾が点在し、絶好の漁港を形成している。世界遺産の巨石列遺跡はカルナックという町にあるが、かつて自転車シューズのブランド名として愛用者が多かったので、ベテランサイクリストには懐かしい名前に違いない。


この日はツール・ド・フランスさいたま主催者が現地訪問。すかさずキッズジャーナリストが取材


ツール・ド・フランスがそれほど多く訪問するエリアではないが、たまに足を向けると海産物の豊富さには驚く。ビスケー湾の甲殻類がとてもおいしかったことが印象に残る。エビの殻が固くてトゲがあるので結構痛いんだけど、その身はとてもおいしい。海のものなんだけど白ワインでいただくのがオススメ。好きな人なら7月の牡蠣もいいかも。

さすが観光大国フランスを思わせるロケーション。そしてそんな美しき景観をつないで走る自転車レース。競技場で開催される球技大会にはない魅力がここにはいくつも存在する。

で、レースのほうは午後8時キックオフのサッカーW杯準決勝を意識したかのような「フランス対ベルギー」の図式。フランス勢2人とベルギー勢2人がスタート直後からゴール手前1kmまで逃げ続けた。最後はコロンビアのフェルナンド・ガビリアが第1ステージに続いて優勝するのだが、総合成績ではベルギーのグレッグ・バンアベルマートがマイヨジョーヌを死守。

さあ、早く撤収してサッカーの「フランス対ベルギー」を見ようよという空気が感じられる…。(山口和幸)

20年前の不穏な空気をふきとばした真夏の日差しにホッとした!

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強烈な日差しをさえぎる木陰が特等席


大西洋に面したペイドラロワールは自転車競技が盛んなところだ。ツール・ド・フランスが定期的にこの地を訪問するのは、自治体や地元企業が自転車イベントの運営やサポートに積極的だからだ。そんな背景を利して、この地方出身のジャンルネ・ベルノードーがバンデUという地域チームを結成し、プロチームに昇格させた。それが新城幸也も所属していたヨーロッパカー。現在のディレクトエネルジーだ。

「U」というのはスーパーマーケットの「スーパーU」の略。1980年代からフランスのプロチームにスポンサーをしていた企業で、その拠点はペイドラロワールだ。前回、このペイドラロワールが開幕地となったのは2011年。カリブ海の海外県マルティニック島育ちの絶対的エース、トマ・ボクレールをのぞく8人がバンデ県出身選手で構成され、新城が出場を逃したのはスポンサー的な圧力が加わったからである。

もともとベルノードーはフランス純血主義者、さらに言えばこの地域をこよなく愛するフランス人だった。その考えが変わったのはチーム名がブリオシュラブランジェールだった2004年、海外県のボクレールがマイヨジョーヌを獲得したのがきっかけだった。「海外からの才能もどんどん利用していった方がいい」と方針を修正した。


この日はチームタイムトライアル


日本の新城もしばらくしてベルノードーのブイグテレコムに加入し、以来ペイドラロワールを拠点として活動している。2年間は2011年第2ステージのスタート・ゴール地点となったレゼサールにあるチーム所有の城館に住んでいたが、近くにあるベルビルシュルビー、日本語にすると「人生における美しき町」という町に引っ越した。近所の子供たちが練習に出かける新城の後を追うこともあり、地元少年たちにとってのプロ選手は新城だったりもするわけだ。

大都市ナントからクルマで1時間ほど。集落をつなぐ1本道が農地と森林のなかを一直線に貫通する。さすがに国道は交通量があるが、ツール・ド・フランスによく利用される県道は閑散としていて、まさに自転車天国。平坦といってもうねりのある丘陵地が散在し、負荷をかけた練習もこなせる。


チームタイムトライアルの選手らがやって来た!


ただしボクにとっては忌まわしい記憶もある。それが第3ステージの舞台となったショレだ。1998年はフランスで開催されていたサッカーW杯と日程が2日重なっていたこともあり、話題性喚起のためにアイルランドを3日間走るコース設定だった。北海に面した港に向かったフェスティナチームの車両がフランスとベルギー間の国境で検問に遭い、マッサージャーが運転するクルマの中から大量の禁止薬物が押収された。優勝候補だったフランスのリシャール・ビランクらはそのままレースを続行し、大会はW杯優勝に沸くフランスに入国するのだが、第4ステージ終了後のショレでフェスティナチームの監督が逮捕された。さらに全選手が「排除」という通告を受けた。これがいわゆる「フェスティナアフェア」だ。

あのときはツール・ド・フランス100年の歴史が止まるかと思った。それほど衝撃的で不安だった。だからボクはできればショレには足を向けたくなかった。

ただしこの日は真夏の快晴。20年前は不穏な空気が立ちこめていたが、汗がしたたるほどの日和に恵まれ、陰湿な気分も吹き飛んだ。今大会唯一のチームタイムトライアルはこの種目を得意とする米国チームのBMCがトップタイムで優勝。同チームのグレッグ・バンアベルマート(ベルギー)が首位に立った。(山口和幸)

フランス版「風雲たけし城」の聖地巡礼はここ!

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大西洋岸を進むツール・ド・フランス © ASO


自転車専門誌「サイクルスポーツ」の編集部員として社会人を始めたボクが、ツール・ド・フランスに初めて派遣されたのはフランス革命200周年の1989年だった。最終日のシャンゼリゼで米国のグレッグ・レモンが史上最僅差の8秒という接戦で大逆転をした。目の前でそんなツール・ド・フランス史上最高のドラマが展開したのだから、それはもうボクの人生を左右するにあまりあるもの。以来、四半世紀以上はツール・ド・フランスの現場に居続けることになり、気がつけばボクよりもキャリアがある取材陣は数えるほどになった。

そんなボクと同等のキャリアを持っているのがフランスのとある人気テレビ番組だ。1990年7月7日に当時のアンテヌ2、現在は局名が変わってフランス2で放送されている「Fort Boyard=フォール・ボワヤール」だ。第2ステージのゴール、ラロシュシュルヨンからすぐ。海の中にあるフォール・ボワヤールという要塞を舞台として、ムキムキの若い男女がチームを組んで黄金財宝をかき集めるというバラエティ番組だ。


この日のホテルはビーチまですぐ!


縦31m、横68m、高さ20mという石造りの軍艦のような要塞。かつては英国艦艇をにらむ軍事拠点だったが、その後は犯罪者をニューカレドニアに流刑するまでの収監地として使われ、20世紀になると民間業者の手に渡り歩き、現在はテレビ局が所有。そこで人気番組が収録されるというわけだ。

日本で言うならTBS緑山スタジオの敷地内で行われた「風雲たけし城」に似ているが、とんでもなくおぞましく、おおよそ日本では放送に適さないシーンも連発する。どう猛なトラが解き放たれるまで、金貨をかき集めて賞金稼ぎするというフィナーレもえげつない。たまにフランスの有名人もゲスト参加して、ツール・ド・フランスで活躍したローラン・ジャラベールとリシャール・ビランクも登場した。韓国や中国ではごく短い時間だが放送されていた時期があるが、日本では未放送。


今日のお昼ごはんです


ツール・ド・フランスに帯同する各国テレビ局は相当の人数になる。とりわけ国際映像を制作するフランステレビジョンは現場スタッフだけで200人を超える。ゴール地点には彼らのために仮設食堂が設置され、専属コック数人が青空の下で料理の腕を振るう。赤ワインが木箱のままで運び込まれる。素材の調達係がいて、皿洗いのスタッフがいる。レースでだれが逃げていようとそんな担当者には関係ない。彼らにとってツール・ド・フランスは単なる仕事現場だからである。

ナポレオンが作ったこの日のゴールのラロッシュシュルヨンはその昔、ナポレオンシュルヨンっていう町の名前だったらしい。80年ぶりにツール・ド・フランスを迎えるというこの日、大会新記録となる18回目の出場となるディレクトエネルジーのシルバン・シャバネル(フランス)が134.5kmを独走。所属チームの地元であり、自らを見出してくれたジャンルネ・ベルノードー監督の62回目の誕生日だったからだ。この日最も活躍した選手に贈られる敢闘賞を獲得。ツール・ド・フランスの集団の中で最もキャリアのあるきょうのヒーローは、引退こそ公言していないが、「ツール・ド・フランスとしては最後のレース」と語っている。(山口和幸)

パッサージュ・デュ・ゴワが第1ステージのルートから消滅

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第105回ツール・ド・フランスが大西洋に面したバンデ県で開幕した。第1ステージのスタートはノワールムーティエという島で、干潮のときだけ通行できるパッサージュ・デュ・ゴワを通ってフランス本土に渡るのが当初の予定だった。ところがとある理由でパッサージュ・デュ・ゴワを通行することができなくなった。その理由は意外にも…。

パッサージュ・デュ・ゴワはいわゆる「海の中道」で、干潮のときだけ道路が海面上に姿を現す。道路区分は県道だ。本土まで3kmほどの道がほぼ一直線に延びているのだが、濡れた路面は藻がはびこり、かなり滑りやすい。2011年に同じバンデ県で開幕したとき、初日にパッサージュ・デュ・ゴワで全選手が停止し、開幕セレモニーを行った。


待ちに待ったツール・ド・フランスがやって来た © ASO


そんな有名なルートなので、バンデ県で開幕するときは必ず通る。主催社もそれを売りにしている。ところが2018年はパッサージュ・デュ・ゴワの通行をあきらめざるを得なくなった。その理由はFIFAワールドカップが開催されるからである。

ツール・ド・フランスの開幕日は国際大会競技日程の慣例にしたがって明確にこの日と決められる。春のクラシックレースの各大会が2017年よりも1日早ければ、ツール・ド・フランス開幕日も2017年より1日早い6月30日。潮見表も精査したはずで、第1ステージのスタート時間をはじき出すと、ちょうどパッサージュ・デュ・ゴワが渡れる時刻だ。主催社はいったん大会日程を発表したのだが、待ったがかかった。


これは干潮時のパッサージュ・デュ・ゴワ © PRESSPORTS


7月15日まで開催されているワールドカップ・ロシア大会とあまりにも日程重複していて、興行としても協賛活動面でもマイナスが大きい。そこで異例の1週間後送り。ツール・ド・フランスは7月7日開催となって、「めでたしめでたし」…とはすべてが収まらなかった。1週間後のパッサージュ・デュ・ゴワはその時間、海の底にあるというわけ。ということで、2018ツール・ド・フランスはノワールムーティエアンリルから大渋滞しそうな砂嘴の上を通って本土を目指します。

2018年はそんなすったもんだで開幕を先送りしましたが、2020年は前倒しで6月27日開幕となります。東京五輪があるんです。男子ロードは五輪最初の決勝種目なので7月25日開催。そのためツール・ド・フランスは19日にパリに凱旋しておかないと、強豪選手が東京に来られないんです。

そんなこんなで開幕した第105回大会。初日は初出場のクイックステップフロアーズのフェルナンド・ガビリア(コロンビア)がゴール勝負を制していきなりの初優勝。1位着のボーナスタイムをゲットして総合成績でも首位に立った。総合優勝をねらう選手の中では、スカイのクリストファー・フルーム(英国)、BMCのリッチー・ポート(オーストラリア)、ミッチェルトン・スコットのアダム・イェーツ(英国)が残り9kmで落車に巻き込まれて51秒遅れでゴール。モビスターのナイロ・キンタナ(コロンビア)は機材故障で1分15秒遅れた。

波瀾万丈のツール・ド・フランス。23日間、こんな感じで現場からコラムをお届けします。パリを目指して頑張ります!(山口和幸)

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